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アナーキズム/アナーキスト/無政府主義

19世紀、国家の存在を否定し、権力からの個人の完全な自由を目指す革命思想。

 無政府主義といわれる。国家機構に代わる、労働組合を通じて労働者が社会に参画することをめざす、アナルコ・サンディカリズムにつながっていく。19世紀前半のフランスのプルードンに始まり、後半にロシアでバクーニンクロポトキンなどが出現し、一つの勢力となった。国際労働者運動(インターナショナル)でもマルクスらの正統的なマルクス主義と対立、ロシア革命ではレーニンのボリシェヴィズムと激しく対立した。
参考 アナーキズムの語源 古代ギリシアのポリスで、アルコン(執政官)がいない状態を「アルコン無し」の意味で「アナルキア」といった。つまり「執政官なし」=政治権力なし、がアナーキズムの語源である。 

スペインのアナーキスト

 スペインでは、1870年代にカタルーニャ地方の工業都市バルセロナで、バクーニンらの影響を受けた労働運動が盛んになった。彼らは、労働組合による自主管理社会を理想として活動し、次第に勢力を増していった。ロシアや他のヨーロッパ諸国では、アナーキズムの思想はボリシェヴィキとの論争、いわゆるアナ=ボル論争で敗れる中で、政治的な主張としてはほぼ退潮してしまったが、スペインではなおも大きな勢力を保っていたのが特徴である。
 ファシズムの脅威が高まり、1936年にスペイン人民戦線政府が成立すると、フランコが7月に反乱を組織、スペイン戦争が開始された。このとき、ファシストと最も激しく戦ったのがアナーキストの労働組合CNT(全国労働連盟)を母体とした民兵であった。特にその指導者、ボナヴェントゥラ=ドゥルティは、ファシストと果敢に戦い、資本家、地主、聖職者を次々と処刑して恐れられるとともに、その政治的野心のない、無私に徹した戦いは多くの大衆の心をつかみ、ドゥルティはスペイン戦争をつうじての最も人気のある指導者となった。ドゥルティは1936年11月、マドリード攻防戦の戦場で腹部を打たれて戦死した。しかしその銃弾が反乱軍の者であったか、政府軍からのものであったか、謎である。<ドゥルティについては、現代のドイツの評論家エンツェンスベルガーのルポ『スペインの短い夏』に詳しい。

Episode 「公平」という名の手榴弾

 スペイン戦争の初期にアナーキストたちが用いた手榴弾は「公平」と言われた。
(引用)当時使われた手榴弾は恐るべき代物で、「FAI弾」として知られていた戦争の初期にアナーキストによって作られたものだった。それはミルズ式手榴弾原理に従っていたが、梃子がピンではなくテープで抑えられていた。テープを切ってから大急ぎで投げなければならない。これらの手榴弾は「公平」と名づけられていた。というのは、投げつけられた者ばかりでなく投げた当人をも殺すからだった。<ジョージ=オーウェル/鈴木隆・山内明訳『カタロニア賛歌』1938 現代思潮社 1966刊 p.36>
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書籍案内
スペインの短い夏
エンツェンスベルガー
/野村修訳
『スペインの短い夏』
1973 晶文社
カタロニア賛歌
ジョージ=オーウェル
/鈴木隆・山内明訳
『カタロニア賛歌』1938
現代思潮社 1966