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南下政策(ロシア)

18~20世紀初頭の、ロシア帝国の黒海方面、バルカン半島および中央アジア、東アジアで勢力を南下させ拡大する動き。特に帝国主義時代には世界戦争の一因となった。

 ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩むロシア帝国は、その領土拡大の目標を、北ではバルト海方面、南は黒海バルカン半島方面においていた。そのうち、特に黒海方面に侵出し、その出入り口であるイスタンブル(コンスタンティノープル)を押さえようとする領土拡張策を南下政策という。また、カフカス地方からイランへの侵出、中央アジアのトルキスタン地方からアフガニスタンやインド方面まで勢力を伸ばそうとするが、それを含めて広い意味で南下政策という場合もある。

目標はコンスタンティノープル

 オスマン帝国支配下のバルカン半島、黒海沿岸を奪い、東地中海から中東方面に侵出することをめざす南下政策は、18世紀前半のピョートル大帝によるアゾフ海侵出に始まり、18世紀後半のエカチェリーナ女帝の時代にはクリミア半島を占領して大きく進んだ。黒海に次いで地中海方面への進出のためにはその出入り口であるイスタンブル(旧名コンスタンティノープル)を確保したいという強い国家的願望が生まれた。その地はギリシア正教会の総本山コンスタンティノープル教会があるところであるので、その地を異教徒の支配から解放するというのもロシアの大義名分となった。

黒海・バルカン半島方面への侵出

 19世紀のロシアは、スラヴ系民族の独立を支援しながらバルカン半島への勢力拡大を進め、オーストリアとするどく対立するようになった。またロシアのバルカン進出は、中東におけるイギリス、フランスの利権にとって脅威となり、いわゆる東方問題の直接的な要因となった。南下政策の口実となったものが聖地管理権とギリシア正教徒の保護、パン=スラヴ主義であった。
クリミア戦争 ギリシア独立戦争、エジプト=トルコ戦争への介入を経て南下政策を進めたロシアは、1853年~56年のクリミア戦争でオスマン帝国を支援したイギリス・フランス軍に敗れ、軍事や国家機構の立ち後れが明確となったため、アレクサンドル2世は国内の上からの改革を進めたが、1860年代にはその鉾先は中央アジア方面への侵出東アジアへの侵出に向けられた。
露土戦争 いったん挫折したバルカンへの進出は、国内改革を終えて態勢を整えたアレクサンドル2世によって、1870年代に再開された。背景に西ヨーロッパで普仏戦争が起こり、世界の耳目がそちらに集まっていたこともあげられる。1877年、アレクサンドル2世はスラヴ系住民のキリスト教徒(ギリシア正教会)を保護する口実でバルカン半島に進出し、露土戦争で勝利を得、サン=ステファノ条約で大幅な領土拡張を勝ち取った。しかしイギリス・オーストリアが強く反発、ドイツ帝国のビスマルク公正なる仲介人と称して調停に乗りだし、1878年ベルリン会議が開催され、その結果ベルリン条約が締結され、ロシアとスラヴ系諸国の拡張は制限された。これ以降は、ロシアの直接的な領土拡張は終わり、もっぱらバルカン半島のスラヴ系諸国家との連携を強化する方向に転じたがそのパン=スラヴ主義は、オーストリアの進めるパン=ゲルマン主義と衝突するようになり、いわゆるバルカン問題として第一次世界大戦の要因となっていく。

西アジアへの侵出

 ロシアの南下政策はバルカン半島と黒海方面だけではなく、黒海とカスピ海の間のカフカス地方でのカージャール朝イラン領への侵攻も進められ、イラン=ロシア戦争では1804年~13年の第1次でグルジア(現ジョージア)とアゼルバイジャンを、1826~28年の第2次で東アルメニアを獲得した。また1828年には不平等条約であるトルコマンチャーイ条約をイランに承認させ、開国させた。

中央アジアへの侵出

 カザフ草原からトルキスタン方面への中央アジアへの侵出も積極的に進出した。コーカンドヒヴァブハラの三ハン国を次々と征服していった。イラン及び中央アジア方面へのロシアの侵出は、インドでの権益への脅威であると捉えたイギリスとの厳しい対立を生むこととなり、特に緩衝地帯であるアフガニスタンを巡って両国関係は悪化した。イギリスは先手を打ってアフガニスタンに侵攻し、1838年アフガン戦争(第1次)が起こった。このアフガニスタンを廻る英露の駆け引きは「グレートゲーム」といわれ、さらに1878年には第2次アフガン戦争を起こした。この英露の対立は日露戦争後に、ドイツという共通の敵の出現により解消され、1907年英露協商でイランの南北分割、アフガニスタンはイギリス勢力圏とするなどの住み分けが成立する。

東アジアでの南下政策

 また、ピョートル1世の時の1689年ネルチンスク条約以来、18世紀まで中国との国境協定が続いた。19世紀前半には黒海・バルカン方面への南下を強めたが、クリミア戦争で敗れたため、19世紀後半からはロシアの東アジア侵出が積極化した。特に東シベリア総督ムラヴィヨフのもとで、中国への圧力を強め、クリミア戦争終結後の1858年アイグン条約、ついで1860年北京条約で領土を拡張した。ついで日本海方面へ進出して1860年にウラジヴォストーク港の建設を開始した。
 1870年代にはアレクサンドル2世のもとでバルカン半島方面での南下が再び積極化したが、1878年ベルリン会議でそれを抑えられてから、1890年代には、他の帝国主義諸国とともに東アジア侵出に転じた。とくに満州、朝鮮への侵出は、イギリス・日本との利害対立を深めることとなる。
シベリア鉄道の建設 1891年にシベリア鉄道の建設に着手して東アジアへの野心を強め、さらに1894年日清戦争に際しては、いわゆる三国干渉を行って遼東半島を清国に返還させたことによって清朝との関係を深め、1896年、見返りとしてロシアと露清密約を結びシベリア鉄道の支線として東清鉄道の敷設権を獲得した。
日露戦争 1900年の義和団事件満州に出兵、戦後も撤退せず、同じく大陸進出を目指した日本との対立を深めていった。このような動きを警戒したイギリスは、それまでの光栄ある孤立という姿勢を転換させて1902年に日英同盟を締結する。そしてこの20世紀初頭の満州侵出なども広くロシアの南下政策に含まれ、1904年日露戦争の要因となった。しかしこのロシア帝国の膨張政策は国内矛盾を深め、戦争中に第1次ロシア革命が勃発する。

20世紀のバルカン問題

 ロシアは1904年の日露戦争に敗れてから東方侵出をあきらめ、南下政策の力点を再びバルカン方面に定め、パン=スラヴ主義を掲げて、トルコ領を脅かすようになり、それはパン=ゲルマン主義を掲げてバルカン方面への侵出をすすめるオーストリアおよびドイツとの対立を強め、バルカン問題を深刻化させることとなる。ドイツ・オーストリアとの対決に備えて、イギリスとの間ではイラン・アフガニスタン方面の棲み分けに合意して英露協商を締結(1907年)、すでに締結していたフランスとの露仏同盟とともに三国協商を形成した。
第一次世界大戦とロシア帝国の崩壊 バルカンにおいてオスマン帝国の弱体化に乗じて二度にわたるバルカン戦争を展開し、ロシアが後押しするセルビアとオーストリアの間で紛争が起きると直ちにセルビアを支援し、1914年のサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦となる。この世界大戦に三国協商の一員として加わったロシア帝国であったが、これまでの南下政策に見られる膨張政策を続けたことで、国力は疲弊し、ツァーリズムの矛盾は深刻になってゆき、ついに1917年の第2次ロシア革命が起こり、ロマノフ朝ロシア帝国は崩壊する。

新たなロシアの南下政策

 ロシア帝国を倒したレーニンのボリシェヴィキは、社会主義国家としてソヴィエト連邦を作った。本来、社会主義は国家主義や全体主義、覇権主義とは無関係のはずであり、レーニンも平和についての布告において無併合・無償金・民族自決を原則とする講和を提唱していた。しかし、レーニン後のソ連は次第に膨張主義的となっていった。そこでは、民族の独立の主張は、労働者階級の国際連帯に反する偏向した民族主義の誤りとして否定され、特にスターリン時代は「社会帝国主義」と言われるほどの膨張傾向が見られた。さすがに南下政策とはされていないが、共産党政権維持のために周辺諸国に介入することがしばしば行われた。ソ連のアフガニスタン侵攻もその一例である。
プーチンの「南下政策」 そのソ連が20世紀末に崩壊し、ロシア連邦が生まれたが、21世紀のロシアはプーチン政権の下で、かつてのロシア帝国の南下政策を彷彿とさせる行動を開始している。カフカス地方の民族主義的な動きに乗じた、1994年の第一次チェチェン紛争はエリツィン政権の下であったが、2000年のロシア軍によるグローズヌイ派兵の最中に大統領となったのがプーチンであった。2008年8月のジョージア(グルジア)紛争(南オセチア紛争)が行われ、シリア内戦への介入し、そこではアサド政権を支援して、アラブ人やクルド人に対する化学兵器を用いた攻撃も行われた。
ウクライナ侵略戦争 2014年3月クリミア併合でプーチン=ロシアの膨張主義が明らかになった。そして同年4月にはウクライナ東部のロシア系住民の独立宣言を支援する名目でウクライナ東部紛争を引き起こし、ついに2022年2月24日ウクライナ侵攻を開始した。プーチンはそれをウクライナのナチ政権によるジェノサイドからロシア系を守るための特別軍事行動と称しているが、明らかに国際法・国連憲章に反する侵略行為である。これらの一連のプーチンのやり方は、ロシア帝国時代の南下政策となんら変わらない、理念なき膨張政策であり18世紀的「侵略戦争」の再演である。
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