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江華島事件

日本が1875年に朝鮮の江華島を砲撃し、開国を迫った事件。

明治維新後、日本政府は朝鮮王朝(李朝)に開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。1875年、日本は軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪した。日本側は朝鮮側の砲撃の責任を問い、交渉のための開国を迫り、翌1876年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国した。なお、このとき日本軍が砲撃した江華島はソウルに近い漢江の河口にあって、かつて元に抵抗した戦った高麗の宮廷が置かれたところである。またこの時日本軍が上陸して略奪を行った隣の永宗島は、現在はアジアのハブ空港としてにぎわっている仁川(インチョン)国際空港があるところである。

江華島事件の経緯

 史実の書き替え 最近発見された日本側の海軍指揮官の記録によると、経緯は次のようなものであった。1875(明治8)年9月20日、航路研究の命によって朝鮮沿岸を測量していた日本艦雲揚は「測量及諸事検捜且つ当国官吏へ面会万事尋問をなさんと」してボートを下ろし、江華島の砲台に近づき、上陸をしようとしたところ、突然砲撃を受けた。小銃で応戦して直ちに本艦に戻り、翌日「此儘捨置くときは御国辱に相成、且つ軍艦の職務に欠く」ことになるので、雲揚が江華島第三砲台に近づき、砲撃を開始した。朝鮮側も応戦したが、その砲弾は雲揚に届かなかった。午後、陸戦隊を上陸させ砲台を焼き払った。翌日は陸戦隊22名を永宗島に上陸させ朝鮮側の35名余を殺し、大砲36門と小銃・槍・楽器などを戦利品として雲揚に持ち帰った。日本側は負傷者2名、1名は帰艦後死亡した。翌23日も上陸して前日運びきれなかった捕獲品を積み込み、28日に長崎に帰還した。以上が最近明らかになった経緯の概略であるが、正式報告書及びその後の政府の説明では、「日本艦雲揚は飲み水を求めて接岸しようとしたところ突然砲撃を加えられたので、自衛のために反撃した」ということになっている。実際には一方的な日本側の軍事行動であるが、それを薪水給与をせずに砲撃した朝鮮の不法として国際社会に示すための作為であった。<鈴木淳『日本の歴史』20 2002 講談社 p.126-132>
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ノートの参照
第13章3節 エ.東アジア国際秩序の再編