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大院君

19世紀後半、朝鮮王朝の実権をにぎり激しい排外、攘夷策をとった。閔氏一族と対立し、壬午軍乱で清に抑留される。帰国後もたびたび政変に関わった。

朝鮮王朝(李朝)国王の高宗の父として大院君の称号を授けられた。高宗の即位に伴い摂政となった1863年から実権を握り、それ以後、19世紀末まで朝鮮の政治史の中で浮沈をくりかえした。

激しい排外主義

 大院君は外戚政権を抑え、両班(文武官僚の地位を世襲した門閥貴族)の勢力を抑えるなど改革を行った。また強まる列強の開国要求に対しては、儒教の大義名分論に基づいて、武力によってその要求を拒絶し、1866年のアメリカ船シャーマン号事件、同年のフランス人神父の処刑などの強硬な排外、攘夷策を採った。しかし、その強引な政治には反対する勢力も強く、高宗が成人した1873年に引退した。代わって高宗の后である閔妃とその一族が力を持つようになり、閔氏政権が日本の脅迫に屈して江華条約を締結して開国に応じた。この間、大院君は政権から遠ざけられていたが、宮廷内の抗争はたびたび大院君の力を利用しようとしたので、隠然とした力をふるい、政権復帰の機会を狙っていた。

激しい政治的な浮沈

 1882年、日本と結ぶ閔氏政権との下級兵士の反乱である壬午軍乱が起こると反乱軍に担ぎ出されていったん政権に復帰したが、すぐに介入した清軍によって拘束され3年間抑留された。朝鮮では閔氏政権が復活し、清の力を頼る保守派の事大党が力を持つようになり、日本と結んで改革を進めようとする独立党との対立が激しくなり、1884年に独立党の金玉均らが閔氏と事大党を排除する甲申政変を起こしたが、清が軍隊を派遣し、鎮圧した。その後、朝鮮宮廷にはロシアが徐々に発言力を増しきたため、清の李鴻章は大院君を帰国させ、閔妃に圧力をかけようとしたが、大院君にはかつてのような名声はなく、孔徳里の別荘で書画三昧の生活を送るしかなかった。勝海舟とも絵を交換する交友関係があったという。

日清双方から利用される

 1894年、日清戦争が始まると日本は朝鮮に親日政権をつくる必要に迫られ、またまた大院君を担ぎ出した。しかし、国王の高宗を抑えている閔妃はその後も実権を手放さず、ロシアと結んで日本を牽制し、日本は強い危機感を持った。そこに1895年の閔妃暗殺事件が起こったが、在韓日本公使三浦梧楼らは、大院君によるクーデターと偽装しようとした。しかし、一国の王妃を王宮の中で虐殺したことは朝鮮民衆の憤激を呼び起こし、高宗らは急速に親ロシアに傾き、日本のねらいは逆効果となって終わった。このときが大院君が担ぎ出された最後となり、彼は1898年、失意のうちに死んだ。

Episode 無頼の徒だった大院君の評価

 彼は本名は李昰応といい、朝鮮王朝の李氏の一人にすぎず、もともと前王との縁は遠く、不遇のままに「市井無頼の徒」と交わりながら前半生を過ごしていたが、前王に実子がないままなくなり、たまたま次男が選ばれて新国王となったことから、興宣大院君(略称が大院君)の称号を与えられて政権を掌握した。急遽、内外の危機に処することとなった大院君は、それまでの両班などの血統にこだわらず、商人や下級官吏を大胆に登用した。そのため、従来の特権的な貴族層の反発を受けたが、中央集権化が進み、支配の基盤を中間的な商人層に置くことによって商品経済の展開が始まった。彼の徹底的な排外策は資本主義列強の侵略という民族的危機に対する戦いであり、またその力となったのが旧来の武人ではなく、農民や漁民、猟師たちであったことは注目できる。
(引用)(大院君の排外政策は)単なる封建権力の伝統的鎖国政策ではない。欧米の侵略性を見抜いて、まだ幼弱な国内市場を防衛しようとした民衆、とりわけ中間的商人層の正当防衛行為でもあったというべきであろう。「頑迷固陋」とか「やみくもな排外主義」とかレッテルをはる日本の大院君イメージはまちがっている。<梶村秀樹『朝鮮史』1977 講談社現代新書 p.98,100>
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ノートの参照
第13章3節 エ.東アジア国際秩序の再編
第14章3節 ウ.日本の韓国併合
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梶村秀樹
『朝鮮史』
1977 講談社現代新書