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朝鮮戦争

1950年6月南北に分断された朝鮮半島で勃発した戦争。北朝鮮の南下から始まり、アメリカが南を支援して盛り返し、後半は中国軍が北を支援して参戦、53年に北緯38度線で休戦協定が成立した。冷戦下のアジアにおける実際の戦争となり、日本にも大きな影響を与えた。

 朝鮮は1945年8月15日、日本の植民地支配から解放されたが、東西冷戦が進行する中で、南北に分断されてしまった。1948年に北には朝鮮民主主義人民共和国、南には大韓民国という別個の国家が成立し、北は社会主義体制をとり、南は資本主義体制をとるという二陣営が直接対立する場となった朝鮮半島で、1950年6月についに戦争が勃発した。南北いずれが先に仕掛けたが、議論があったが、現在は北朝鮮の金日成が、中国革命に続いて朝鮮半島でも社会主義による統一国家の建設を目指し、武力統一をはかったものと考えられている。北朝鮮軍の侵攻に対して、韓国軍を「国連軍」の軍旗を掲げたアメリカ軍が直接支援し、さらには後半には中華人民共和国から義勇兵が北側に参戦し、内戦にとどまらない国際的な戦争となった。両軍は、第二次世界大戦後のもっとも深刻な戦闘を繰り返したが勝敗がつかず、1953年に北緯38度線で両軍が対峙したまま休戦協定が成立した。現在に至るまで完全な和平には至っていないのであり、東アジア情勢の最大の不安定要因となっている。

経過

・北軍の侵攻 1950年6月25日、金日成の率いる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)軍が軍事行動を開始し、北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。国際連合の安全保障理事会は緊急会議を開催し、即時停戦と北朝鮮の撤退勧告を決議した。この時、常任理事国のソ連は中国代表権問題で他の4常任理事国と対立して安保理をボイコットし欠席していたので、ソ連抜きの安保理決議となった。アメリカのトルーマン大統領は緊急を要すると判断してアメリカ軍を単独で派遣することを決意、日本駐留のアメリカ軍に出動を命じた。
・北軍、釜山に迫る 北朝鮮軍は28日、ソウルを占領したが金日成の期待した南朝鮮の人民蜂起は起きなかった。その後も北朝鮮軍の進撃は続き、大田で米軍を破り、半島南端の釜山に迫った。7月7日、国連安保理は国連軍の派遣をソ連欠席のまま決定、米軍のマッカーサー元帥を統一司令部に任命した。国連軍とはいえ、その9割はアメリカ軍によって構成されているというのが実態だった。
・米軍上陸と中国参戦 9月15日、マッカーサーは北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を展開し、形勢を逆転させ、ソウルを奪回した。さらにアメリカ軍は38度線を越えて北上したため、10月20日には平壌を陥落させた。それに対して毛沢東の中華人民共和国政府は北朝鮮支援を決意し、大量の中国人民義勇軍を送った。中国軍の参戦によってアメリカ軍は後退し、38度線の南に押さえこまれ、ソウルを放棄した。
・休戦交渉 トルーマン大統領は休戦を決意し、原爆の使用を主張するマッカーサー司令官を解任(51年4月)、長い休戦交渉の結果、1953年7月27日、南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で朝鮮休戦協定に調印した。朝鮮戦争の休戦成立には、同年1月のアメリカのアイゼンハウアー大統領就任、3月のソ連のスターリンの死去という米ソの政権交代が大きく作用していた。

戦争の惨禍

 朝鮮戦争の戦死者の数ははっきりしないが、ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者は200万~400万、韓国40万、アメリカ14万といわれる。アメリカの推定では、中国兵90万、北朝鮮兵45万が死傷。約40万の国連軍兵士も死傷。うち3分の1ちかくが韓国兵で、米軍の戦死者は5万4千人であった。ソ連は航空部隊を提供、航空機335機と飛行士120名が失われた。その他、1000万人以上の離散家族を生んだ。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2002 中公新書 p.82、浜林・野口『ドキュメント戦後世界史』p.74>

意義

・朝鮮の分断 朝鮮戦争によって、朝鮮は北緯38度線を休戦ラインとする南北分断国家と固定化され、民族統一はさらに困難となり、現在も休戦状態が継続している。韓国と北朝鮮の間は依然として戦争状態であり、休戦しているにすぎない。現在の両国の統一という課題の前提には、朝鮮戦争を正式に終結させることが必要となっている。第二次世界大戦によって分断国家となったドイツとベトナムは、すでに民族統一を回復しており、朝鮮のみが依然として分断されている。朝鮮の統一が達成されなければ、真の意味で第二次世界大戦は終わっていないといえる。
・核戦争の危機 第二次世界大戦終結の5年目に起こった朝鮮戦争は、「冷戦の中の熱戦」として第三次世界大戦の危機となった。国際世論がイギリスなどを動かし、世界戦争の再発は回避された。しかし、現地司令官のマッカーサーは北朝鮮を支援する中国大陸に対して原爆の使用を計画し、一時は核戦争の勃発が危ぶまれた。そのときすでに49年のソ連は原爆実験に成功しており、さらに戦争末期の53年には米ソとも水爆実験を行っていた。このような核兵器の急激な高性能化は、かえって米ソ両国に恐怖心を与え、「核抑止力」が働くこととなって、核戦争は回避された。

朝鮮戦争の影響

 冷戦構造の中で朝鮮戦争は重要な画期となった。以下、その影響をまとめる。
・アメリカ合衆国の転換 それまでのトルーマン=ドクトリンマーシャル=プランに見られる「封じ込め政策」(非共産圏の経済を援助して共産勢力の膨張を食い止めるという政策)から、1953年のアイゼンハウアー大統領の下でダレス国務長官が打ち出した「まき返し政策」(非共産圏への軍事支援を強化し、共産勢力に反撃する)に転換した。戦争が勃発した1951年をもってマーシャル=プランは終了し、経済援助のかわりに軍事的協力の義務を負わせる相互安全保障法(MSA)に転換する。また朝鮮戦争の時期、アメリカではマッカーシズムといわれる反共産主義運動が巻き起こり、政界だけでなく、教育、文学や映画などの文化面まで共産主義者もしくはその同調者とミナされた人々に対する攻撃が行われた。
・東西対立のアジア・太平洋地域への拡大 アメリカ合衆国は1951年から53年にかけて、日米安保条約、アメリカ=フィリピン相互防衛条約、ANZUS条約、SEATOとMETOなどを次々と成立させ、アジア・太平洋地域でのソ連・中国などの対共産圏軍事包囲網を結成し、軍事的対決姿勢を強めることとなった。日本もその構想に組み込まれることとなった。
・中華人民共和国の台頭 アメリカ軍の全面的な韓国に対する支援にもかかわらず、成立直後の中華人民共和国が支援した北朝鮮が互角以上に戦ったことは世界を驚かし、毛沢東・中国共産党指導部の国内、国外での権威が強まったと言うことができる。毛沢東は1953年から第1次五カ年計画に着手、本格的な社会主義建設段階にはいる。
・アメリカの対日政策の転換 アメリカが冷戦構造の中でソ連・中国との対決姿勢を強めたことの一環として、その対日政策が大きく転換された。戦後の占領政策であった「民主化と軍備廃止」から、日米安全保障条約のもとで日本を共産圏との戦いの最前線と位置づけ、「共産主義化防止のため再軍備」させる政策に転換、それの方針によって警察予備隊(後の自衛隊)の設置を日本政府に指令した。
・日本経済への影響 アメリカの極東戦略の変更から日本の再軍備が開始されただけでなく、日本は朝鮮戦争を機に、日本国内の基地から戦場に向かうアメリカ軍の軍需物資を提供することによって、大きな利益を得た。これが「朝鮮特需」と言われることであり、これによって日本は戦後の経済復興を成し遂げることとなった。いずれにせよ、朝鮮戦争によって戦後日本は保守化・経済成長へ大きく舵を切ることとなった。
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ノートの参照
第16章2節 ア.朝鮮戦争と冷戦体制の成立