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義兵闘争

1905~10年にかけて展開された、日本の朝鮮保護国化に対する兵士・民衆による戦い。

日本の植民地支配に対して抵抗した軍人・兵士を義兵といい、彼らの闘争は早く、閔氏殺害事件の後の1896年に起こっている。このときは、政府が出した断髪令に対する反発もあって、闘争の主体となったのは朱子学を信奉する儒生たちであった。本格化したのは第2次日韓協約(乙巳保護条約)が結ばれた1905年以降である。1907年、第3次日韓協約によって軍隊が解散させられると、軍人で反乱軍に加わるものが増え、義兵闘争は1909年にかけて朝鮮全土に広がり、さらに一般民衆も加わって、最盛期を迎えた。彼らは日本軍・憲兵・警察と交戦し、役所や鉄道、電信施設などを攻撃した。義兵は一時は首都京城に迫ったが、日本軍に撃退された。さらに日本は軍隊を増強すると共に、同年9月から2ヶ月にわたる「南韓大討伐作戦」を展開し、1910年までにほとんどを鎮圧した。それに対して、1909年10月には前韓国統監伊藤博文が義兵闘争に加わっていた安重根によって殺害されるという事件が起こった。義兵闘争を鎮圧した日本は、ついに1910年に大韓帝国との間で韓国併合条約を締結して韓国併合を実行した。

義兵闘争の規模と意義

 義兵闘争は事実上の朝鮮独立戦争であり、大規模な反日闘争であったが、日本ではほとんど知られることはなかった。日本軍が日本や外国からの記者が現地に入ることを認めなかったので、日本にも、世界にも報道されなかったのだ。1907年のハーグ密使事件は義兵闘争の激化する前であったが、世界を驚かせ、関心は集めたものの、帝国主義列強はその訴えを無視し、日本政府はかえって第3次日韓協約を押しつける口実とした。
 義兵闘争は日本でもその実態は伝えられず、そのため、戦死者の数には不明な点が多いが、日本側のある資料には、暴徒側の死傷者約14500名、憲兵警察軍隊の死者は日本人127名、韓人52名、となっている。別な資料では1907年8月~09年末までに殺された義兵約16700名、負傷者36770名という。義兵闘争を無視するか、過小に見るのは、現在の日本でも続いているようだが、韓国では「抗日義兵戦争」として独立戦争の始まりと位置づけている。
 義兵の中には、鴨緑江を越えて中国に逃れた者も多かった。闘争の末期、義兵に参加した安重根は、ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺した。日本人の多くは、義兵闘争という背景を知らないので、安重根は単なるテロリストと受け取られているが、韓国では「抗日義兵戦争」における救国の英雄とされているのである。

義兵闘争の理念、「衛正斥邪」思想

 この闘争を義兵というのは、挙兵には「大義名分」があったからであった。大義名分は朱子学が最も重視する行動規範である。それでは、どのような大義名分があったのか、日本の立場からもそれを無視することはできない。
 義兵闘争に立ち上がった兵士、民衆を支えた理念が、朝鮮の根強い思想的伝統である儒学(特にその中の朱子学)の学者である儒生の主張していた衛正斥邪の思想であった。衛正斥邪とは朱子学の教えを守り、西欧と西欧化した日本の侵略を排除しようとするものであり、かつては大院君の鎖国政策の理念でもあったが、日本の保護国化されるという朝鮮の危機に立ち上がった義兵の戦いを鼓舞したのもその思想だった。

崔益鉉が掲げた大義名分

 義兵闘争の先駆となった1906年6月の全羅北道淳昌における起兵を指導した儒生の崔益鉉は、起兵を前にして、日本政府に対する声明を発表した。そのなかでかれは「忠国愛人は性といい、守信明義は道という。人にして此の性がなければかならず死に、国にして此の道がなければ必ず滅ぶ」と前提して、日本が江華島条約、下関条約、ロシアへの宣戦布告のなかで「韓国独立」を云々しながら、それを踏みにじってきた「棄信背義十六罪」(信を棄て、義に背いた16の罪)をあげ、日本が守信明義に帰ることを訴えた。そこでは
(引用)かれは欧米列強のアジア侵略のなかで、「東洋三国が鼎足して(日本、朝鮮、中国の三国が協力して)立ち、全力を蓄えて之に備えても、なお支えられぬを恐れる」のに、日本の侵略行為によってアジア三国が「同室相讐」をまぬかれず、結局、欧米列強によって「貴国が強いと雖も、終(つい)には亡び、東洋の禍も、已む時あるなし」。
と述べている。つまりかれは「東洋併亡之禍」をさけるために日本が信義を守ることを訴えるために起ったのだという大義名分を説いている。このように、日本の背信を責め、その道義心に訴えることを挙兵の大義名分として義兵闘争を指導した儒生は、崔益鉉の他にも多数存在した。しかしアジアにおいて「西欧化」を先取りした伊藤博文には、崔益鉉らは頑迷な老儒としてなじった。
 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、三年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。<姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』1977 平凡社選書 p.211-218>
 「衛正斥邪」思想は、当時の世界情勢から見れば観念的で時代遅れの大義名分論かもしれない。この儒教的な観念にしがみついている限り、義兵闘争の勝利はあり得ないであろうし、事実、それが限界となって闘争は敗れた。しかし、崔益鉉の見通しもまた、その通りになった。日本がアジアに対する信義にもとるところがあったこともまた事実として(自虐ではなく)真摯に反省すべきであろう。
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ノートの参照
第14章3節 ウ.日本の韓国併合
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姜在彦
『朝鮮の攘夷と開化』
1977 平凡社選書