印刷 | 通常画面に戻る |

韓国併合

1910年、韓国併合に関する条約によって日本が併合し領土化した。その後、朝鮮総督府を通じて1945年までの35年間統治した。

韓国併合に至る経緯

 日本は、1894年の日清戦争で勝利して、翌年の下関条約清朝の朝鮮王朝に対する宗主権を放棄させた。しかし、ロシアが三国干渉によって遼東半島を還付させたことで朝鮮でも親ロシア派が台頭、焦りを感じた日本が1895年、親露派の閔妃を殺害するという閔妃暗殺事件を起こしたが、かえって反発を受け後退した。1897年、朝鮮王朝は独立国であることを明確にするため、国号を大韓帝国と改めた。ロシアはその後も満州出兵など、朝鮮・満州への進出を強め、日本はイギリスとの日英同盟締結を背景に、1904年に日露戦争に踏み切った。日本はその戦争中と戦後にかけて、韓国との間で3次にわたる日韓協約を締結して、保護国化を進め、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪うことに成功した。それに対して、韓国では激しい抵抗が組織され、義兵闘争が1905年から続けられていた。

韓国合併論の台頭

 初代韓国統監となった伊藤博文は、当初は韓国を保護国としたまま独立を維持させる方針をとっていた。それは日露戦争の建前が「韓国の独立を守るためにロシアと戦う」というものだったからである。しかし、激しい義兵闘争が続き、経済的効果も期待したほど上がらないところから、伊藤の統監政治は生ぬるい、韓国を〝合併〟あるいは〝併呑〟し完全に一体にすべきであるという意見が強まってきた。政府中枢でも桂太郎や小村寿太郎がその考えに傾き、伊藤を説得した。その結果、伊藤も〝合併〟に同意し、日本政府は1909年7月、適当な時期に韓国を併合する方針を閣議決定した。

国際情勢の動向

 政府が最も警戒したのは列強の干渉であったが、ロシアとは1907年日露協約の秘密協定で満州の分割とともにロシアの外モンゴルと日本の朝鮮に対する権益の相互承認で合意しており、またイギリスとは第2次日英同盟でイギリスのインド支配を認める代わりに日本の韓国支配の承認を受けていた。またアメリカとの間では1905年、桂=タフト協定でアメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に承認した。このように日本の韓国併合に対する非難が起こらないという国際情勢を見極めて、韓国併合は実行に移された。

韓国併合の実行

 そのような中で1909年10月に初代統監伊藤博文が満州のハルビンで安重根に射殺されると、それを利用して一気に併合を実現させた。韓国内の親日団体であった一進会は「劣等国民の名を脱するためには大日本天皇の皇澤に頼るべきである」と声明し、合併を申し出た。しかし、伊藤博文暗殺事件と韓国内からの「合邦声明書」を受けて韓国併合が決定されたのではなかった。日本政府は日本はそれ以前(遅くとも1907年までに)に併合を決定していたのである。事件は併合の口実とされ、合邦声明書は韓国からの要請で併合したのだと見せかけるための操作であった。
 日本の韓国統監寺内正毅は、1910年8月22日、韓国の李完用首相に「韓国併合に関する条約」の調印をせまり、ただひとりの閣僚が反対したのみで、閣議は条約調印を承認した。ここでも条約に正当性をもたせる必要があった。

日韓併合条約

 「韓国併合に関する条約」が正式な条約名。略して日韓併合条約ということもある。1910年8月29日に公布された。その第1条には「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲渡する」とあり、第2条で「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲渡を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」とされている。つまり、韓国皇帝が日本天皇に譲渡したとして、韓国併合を実現した。このように「任意的併合」の形式をとったのは、すでに保護国である韓国に対し「強制的併合」を行うわけにはいかないという、国際法上の制約によるものであった。また、韓国側は「韓国」の国号と、皇帝に王称を与えることに固執したが、日本政府は前項は認めず、名称を「朝鮮」とし、退位する皇帝純宗には「王殿下」の称号を与えた。
 ところが、日本と韓国国内では併合条約公布(8月29日)まで秘密にされ、韓国では報道規制が敷かれ、注意人物数百人の事前検束などが行われた。日本では領土拡張を喜ぶ世論が多く、歴史学者は「日鮮同祖論」などを発表して併合を合理化した。一個の独立国が自ら申し出た形で併合されたのは、アメリカのハワイ併合と日本による韓国併合の例のみである。<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書、糟谷憲一『朝鮮の近代』世界史リブレット43 など> → 日本の朝鮮植民地支配  朝鮮総督府

Episode 「併合」という造語

 「併合」という用語は、このとき新たに造語されたものだった。それまでは「合併」または「合邦」という漢語しかなかった。「韓国併合に関する条約」の原案を作成した前外務次官の倉知鉄吉は、後に次のように述べている。 「ちなみにいうと、当時は官民間に韓国併合に関する議論が盛んだったが、併合のありかたについては明確ではなかった。あるいは、日韓両国対等に合一するという考えがあり、またるいはオーストリア=ハンガリー帝国のような種類の国家を作るといいう解釈もあった。したがってその用語も、「合邦」あるいは「合併」などが用いられていたが、自分は韓国がまったく廃絶し、帝国の領土の一部となる意味を明らかにすると同時に、その語調のあまりに過激にならないような用語を選ぼうと思い、いろいろ苦労したが適当な表現が見あたらなかった。それでは当時まだ使われていない用語を用いる方がよいと考え、「併合」という用語を条約原案に用いたのだ。それ以後は公式文書にも常に「併合」という用語が用いられるようになった。」(原文は擬古文)<山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.220-221>

韓国併合か日韓併合か

 現在は教科書でも「韓国併合」とされているが、かつては「日韓併合」と言われることが多かった。それには意識的に「日本と韓国が対等に合併した」と思わせる意図もあった。条約の文面も対等な二国が友好的に合体したと謳っている。しかし、事実は日本が韓国を保護国化し、さらに併合してその主権を奪ったことに間違いない。したがって、「韓国併合」というべきであるというのが現在のおおかたの合意である。用語に大差ないように思えても、現在の国際関係とも関係するので正確な歴史認識に基づいた用語を心がけたい。国号や都市名、民族名は特に注意すべきで、日本は韓国併合の際、以後は「大韓帝国」や「韓国」を使わず「朝鮮」ということを強要し、首都だった漢城も京城と変えた。現在の韓国人は、ソウルを京城とは決して言わない。

日韓併合条約は正当な条約か

 日本は、韓国併合を国際法上合法的なものであり、また日本の保護を受けながら安定しない「未熟な」韓国を併合し、その発展をはかろうとした正当なものであるとしている。現在でも政治家や評論家の中にはそのような見解をもつ人が多いようだ。また、いわゆる日韓併合条約(韓国併合に関する条約)は、日本と韓国の両国が対等の立場で合意した条約であり、国際的にも承認された。それをもって日本の韓国併合を正当化する議論が現在も存在している。しかし、そのような形式論にとらわれていると、誤った歴史認識に陥る危険性がある。韓国は、併合条約の前提である1905年の第2次日韓協約が、武力による威嚇によって強要されたもので国際法上、正当な条約とは言えず、従ってその後の日韓併合条約も無効であると主張している。
 日本が韓国を併合した過程を謙虚に学べば、この併合は形式的には合法的な装いをしているとはいえ、力による一方的な併合であったことは隠すことはできない。韓国側の申し出によって保護国化されたとか、併合されたとか言うのも、表面的な形式を整えたと言うだけで、実態はそうではなかったことは義兵闘争などの激しい抵抗があった事実からみても明らかである。

日韓国交回復交渉での問題点

 日韓併合条約を、押しつけられたものとする韓国と、正当なものとする日本政府の見解の違いは、1960年代の日韓国交回復交渉でも抜きがたいトゲとしてささっていた。65年、そのトゲを隠したまま妥協を強引に成立させたのが、日韓基本条約であった。その時のボタンの掛け違いが現在の日韓相互の不信の背景に存在している。

1910年という年

 韓国併合が行われた1910年は、明治43年、明治も余すところ2年となっていた。この年、日本では大逆事件が起こった。幸徳秋水ら社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとして逮捕され、秘密裁判によって死刑となった。これによって日本では自由な言論は封殺され、社会主義運動は冬の時代にはいる。その同じ年に韓国併合が行われ、日本は植民地帝国としての地位を確立した。日本が帝国主義国家として戦争に突入していく、重要な曲がり角になった年と言える。石川啄木は、9月9日の日記に「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。
 朝鮮植民地化を成し遂げた韓国統監寺内正毅は、その夜、「小早川・加藤・小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」と詠んだ。つまり豊臣秀吉が途中で放棄した「朝鮮征伐」をやり遂げたのだと言っている。大方の日本人の意識もそのようなものだったのであり、石川啄木は異質だったに違いない。寺内正毅は、同年10月、陸相兼任で初代の朝鮮総督となり、ここから1945年の解放まで、35年にわたる日本の朝鮮植民地支配が続くこととなる。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章3節 ウ.日本の韓国併合
書籍案内

山辺健太郎
『日韓併合小史』
1966 岩波新書

海野福寿
『韓国併合』
1995 岩波新書