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日韓協約

20世紀初頭、日露戦争の戦争中から戦後にかけて、3次にわたり日本が韓国の保護化を進めた協約。1905年の第2次協約で実質的に保護国化し、1910年の韓国併合へと向かった

 朝鮮は日清戦争によって、清を宗主国とすることが否定されたので、1897年10月から大韓帝国という国号となっていたが、今度は日本とロシアがその支配権を巡って対立し、1904年の日露戦争となった。戦中のから戦後のにかけて日本は3次にわたる日韓協約によって段階的に保護国化を進めた。

日本による段階的保護国化

 日露戦争中の1904年の第1次、戦後の1905年の第2次、1907年の第3次という三次にわたる日本と韓国のとりきめで、日本は韓国支配を強め、保護国化を図った。第1次日韓協約では財務・外交の日本人顧問を置くことなどを認めさせ、第2次日韓協約では外交権を奪って統監府を設置し実質的な保護国化を実現させた。さらに1907年の第3次日韓協約では、統監府の統治権限を強め、韓国軍隊の解散を認めさせた。
朝鮮の抵抗 1905年の第2次での実質的な保護国化に対し、1907年に皇帝高宗ハーグ密使事件によって国際世論に訴えたが帝国主義諸国によって黙殺された。朝鮮民衆は、儒教の指導者(儒生)が掲げた「衛正斥邪」をスローガンとして、義兵闘争などの抗日闘争を行ったが、日本の軍事力によって抑えられてしまった。日本は、1909年に前韓国統監伊藤博文が安重根によって暗殺されたことを機に、翌1910年には韓国併合を強行する。
・日韓協約~韓国併合のPOINT  日韓併合から韓国併合に至る経過は、一連の動きとして捉え、理解する必要がある。そのポイントだけをまとめれば次のようになる。
  • 1904年 日露戦争中 → 第1次日韓協約で財務・外交の日本人顧問制度を認めさせる。
  • 1905年 日露戦争での日本の勝利。ポーツマス条約でロシアが朝鮮の主権を認める。 → 第2次日韓協約韓国の外交権を奪い韓国統監府設置。(実質的な保護条約) → 衛正斥邪思想による反対運動
  • 1907年 ハーグ密使事件 → 高宗を退位させ、第3次日韓協約で統監府を強化、軍隊の解散。 → 義兵闘争激化。
  • 1910年 伊藤博文暗殺事件(09年) → 韓国併合。日本の植民地支配開始。 → 1919年 三・一独立運動

日韓協約(第1次)

日露戦争の最中の1904年、日本が韓国に財務、外交顧問を置くことなどを認めさせた。

 日露戦争の最中の1904年8月、日本が大韓帝国(韓国)に認めさせた協約で、3次にわたる日韓協約の最初のもの。日本政府が推薦する日本人を財政顧問、外国人を外交顧問として韓国政府が雇用すること、条約締結などの重要外交問題については日本政府と協議すること、を認めさせた。

顧問政治

 第1次日韓協約で、韓国の財政顧問となったのは当時、大蔵省主税局長であった目賀田種太郎であった。彼は日清戦争の戦時財政をきりまわした敏腕官僚であり、韓国では貨幣制度の整理を通じて日本の貨幣流通を可能にして韓国を日本の経済圏に組み込みんだ。そして日本の第一銀行韓国支店に韓国の中央銀行の役割を与え、それが後の韓国銀行、朝鮮銀行になっていく。
 外交顧問になったのはアメリカ人スティーブンスで、彼は日本政府に推薦されて任官したので、韓国政府が他国との外交関係を持たないよう監視するのが任務であった。その徹底した親日的態度は、有給休暇でアメリカに帰った際に、サンフランシスコで盛んに日本の保護政治を賛美したので韓国人移民の怒りを買い、1908年3月アメリカのオークランド駅で朝鮮人青年に射殺されてしまう。安重根による伊藤博文暗殺の一年前であった。<姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』1992 朝日文庫 p.30>

日韓協約(第2次)/乙巳保護条約

1905年、日本が韓国の外交権を奪い、統監を置くなど保護国化を確定した協約。乙巳保護条約ともいう。

 日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で日本は大韓帝国(韓国)に対する保護権をロシアに認めさせた上で、1905年11月、大韓帝国(韓国)との間で第2次日韓協約を締結した。これによって日本の韓国保護国化が確定したが、日本は特派大使伊藤博文を派遣し、軍隊も出動して圧力を加えた上で、締結を強要した。その干支から乙巳(いっし)保護条約とも言う。
 その内容は、朝鮮の外交に関する一切の事務は東京の日本外務省が指揮監理すること、日本の仲介なしに外国と条約・約束を一切結ばないこと、日本政府の代表者である統監を置き外交を監理させること、など外交権を日本が奪ったものである。このように、この第2次日韓協約は、外交権という主権国家としての権利を奪い、韓国を保護国したものである。
日英同盟の改訂 日本はイギリスとの間ですでに1905年8月に第2次日英同盟を締結し、日本がインドにおけるイギリスの優越権を承認するかわりに、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権を認められ、さらに相互に軍事的援助の義務を負う軍事同盟とすることで合意しており、韓国保護国化は国際的に承認されているとしていた。このように、日本の韓国保護国化は20世紀前半に進んだ帝国主義諸国による世界分割の中で行われたことであった。

韓国保護国化とそれに対する抵抗

   翌年統監府が設けられ、伊藤博文が初代統監となった。韓国政府で条約に賛成した五大臣は「乙巳五賊」と言われ売国奴として厳しい指弾を受け、特に各地の儒生(両班の家系の儒学の指導者)の中に、衛正斥邪(正統な国家を外敵から守れと言う大義名分論)の思想がよみがえり、反対運動が始まった。また、韓国と北朝鮮は現在でもこの条約は日本の軍事的圧力のもとで押しつけられたもので、正式な条約ではないという立場をとっている。

脅迫と威嚇で締結された協約

 第2次日韓協約を成立させるにあたり、伊藤博文は特派大使として韓国皇帝高宗に面会した。皇帝は終始外交権の移譲、すなわち国際法上の独立国家の地位を失うことをこばんだ。それに対し伊藤は「もし韓国がこれに応じなければ、いっそう困難な境遇に陥ることを覚悟されたい」と威嚇し、即決を促した。その上で、日本軍が王宮前や目抜き通りで演習と称する示威を行い市民を威圧した。さらに御前会議を開催することを要求、皇帝が病気を理由に欠席すると、閣議というかたちにし、護衛の名目で憲兵に付き添われた伊藤と林権助が出席して同意を迫った。伊藤は五人の閣僚の曖昧な態度を強引に賛成と決めつけ、多数決で採決されたとして外相に署名をさせた。閣僚の一人は涙を流して辞意を表明し退席したが、伊藤は「余り駄々をこねるようだったらやってしまえ」と大きな声で囁いた。宮廷内は日本兵が充満していた。<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書>

参考 今も続く歴史認識での対立

 この実質的な韓国保護国化を取り決めた第2次日韓協約(乙巳保護条約)については、その歴史的認識において、現在も韓国と日本とで食いちがっている。それは戦後の日本と韓国の国交回復を取り決めた1965年の日韓基本条約の交渉過程で明らかになった。
 韓国側はこの第2次日韓協約は武力による威嚇によって強要されたものであるので、国際法上の正当な条約とは言えないとし、そのもとで1910年に締結された韓国併合条約も無効であると主張、したがって日本の植民地支配は国際法で認められない行為であるから賠償の義務を負う、というものであった。
 それに対して、日本政府は併合条約は対等な両国が締結した国際法上有効な条約であり、同条約が締結されたことによって、それ以前の協約は無効になったと主張した。根拠の一つとしては、併合条約は英米などの反対もなく、国際的に承認されているとし、従って合法的な併合であるから賠償は必要ないという主張につながった。基本的な認識の違いを残したまま、韓国の朴正熙大統領のもとで日韓基本条約の交渉が急がれ、1965年に締結となったが、日本政府は韓国が賠償権を放棄したと理解して賠償ではなく経済支援を行うことで調印した。
 慰安婦問題や徴用工問題などで日韓関係が悪化している現在でも、日本政府は 問題は解決しているという立場だが、韓国側はそれに反発しており、歴史認識の食い違いは解消されていない。また日本領だった朝鮮半島北部を現在支配している北朝鮮とは依然として国交がない状態が続いている。

日韓協約(第3次)

1907年、日本が韓国に統監の権限強化、軍隊の解散などを承認させ、保護国化を完成させた協約。

 1907年7月、大韓帝国皇帝高宗は、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を派遣して日本の不当性を訴えた。このハーグ密使事件が起こると、朝鮮統監伊藤博文はむしろ、高宗の責任を追求して退位に追い込み7月20日、日本軍が警備する中、退位式が行われた。さらに同1907年7月中に、この第3次日韓協約の調印を迫り、実現させた。
 大韓帝国(韓国)政府は「施政改善に関し(日本の)統監の指導を受くること」をされ、法令の制定・重要な行政処分・高等官の任免などは統監の承認または同意が必要とされた。また付属の秘密覚書で韓国軍隊の解散が約束された。
 第3次協約によって日本の支配はさらに強くなり、政府の次官以下の官吏の44%を日本人が占め、駐留する軍隊・警察官も増強し、1908年には東洋拓殖株式会社(東拓)を設立して拓殖事業の名目で多くの土地を奪っていった。

保護国化に対する抵抗

 1907年の第3次日韓協約が日本による韓国保護国化が徹底されたことに対して、韓国側にも強い抵抗があった。ひとつは全国に盛り上がった義兵闘争であった。1907年8月1日に京城で朝鮮軍の解散式が挙行されると、一部の軍隊は反乱を開始し、動乱は全土に広がった。義兵闘争も衛正斥邪思想をバックボーンとして展開され、1909年に最も高揚したが、伊藤博文韓国統監らは韓国に対する圧力を増大させ、反日運動を抑えこんだ。そのなかで1909年10月、義兵闘争に参加していた安重根がハルビンで伊藤博文を暗殺する事件が起こると、日本はそれを口実に直接統治に踏み切って、1910年8月22日韓国併合を断行した。
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海野福寿
『韓国併合』
1995 岩波新書

姜在彦
『日本による朝鮮支配の40年』
1992 朝日文庫