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高宗

朝鮮王朝の国王。大院君の次男。王妃の閔氏一派、日本の干渉など苦しむ。1907年、ハーグ密使事件の責任をとらされて退位した。

 こうそう、コジョン。朝鮮王朝(李朝)の末期の国王(在位1863~1907)。宮廷の実力者大院君の次男であったので、先王が子なくして没したとき、12歳で即位し、大院君が摂政となった。このころ外国勢力の開国要求が強まっていたが、大院君は攘夷思想に基づいて排外政策をとった。1873年に成人して大院君は隠居し、親政を取ることとなったが、王妃の閔妃(びんひ、ミンビ)とその一族が政治の実権を握った。このように王妃の一族の外戚が宮廷で実権を握ることを勢道政治といい、朝鮮王朝の悪しき伝統となっていた。
 明治維新で近代化を開始した隣国の日本が江華島事件を起こして朝鮮に対して開国を迫り、閔氏政権はその圧力に屈して不平等条約である日朝修好条規を締結し、開国した。その後、朝鮮宮廷では宗主国である清朝と結ぶ保守派の事大党と、日本に倣って近代化を進めようとする独立派が激しく対立し、壬午軍乱甲申政変のクーデター事件が続き安定しなかった。そのような不安定な状態は、清・日本・ロシアなどの介入によってさらに深刻になった。特に日清戦争の後に日本公使によって閔妃暗殺事件が起こったことは衝撃を与えた。この事件で日本は後退し、代わってロシアの勢力が強まり、高宗も一時ロシア公使邸に移るなど、関係を深めた。日清戦争の下関条約で清の朝鮮に対する宗主権は放棄されたので、1897年に国号を大韓帝国(略称韓国)に改め、高宗も皇帝を称した。
 しかし日本は日露戦の最中の第1次についで、第2次日韓協約によって韓国の保護国化を断行した。外交権を奪われた高宗は、1907年、国際世論に訴えようとしてハーグ万国平和会議に密使を送ったが、列強は日本と取引してその朝鮮支配を承認していたので、その訴えは無視された。朝鮮統監の伊藤博文は高宗のハーグ密使事件の責任を追求して、ついに同年、高宗は子の純宗に譲位した。この譲位の強制は朝鮮の官民あげて憤激したが、統監府の軍事力によって抗議は封殺されてしまった。その後、高宗は前皇帝として余生を送っていたが、1919年に急死した。これは、当時第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激された朝鮮の民族運動を事前に抑えるために、日本が毒殺したのではないか、という疑いが持ち上がり、それが同年の三・一独立運動のきっかけとなった。

Episode 高宗の毒殺説

 高宗はハーグ密使事件で退位させられてから、実質的に軟禁状態に置かれていた。その子の李王垠が日本の陸軍幼年学校から士官学校を出て、梨本宮の娘方子(まさこ)と婚約した。1919年1月21日、その婚儀の4日前にして、高宗は側近を集めて酒を振る舞い、本人はお茶を飲んで寝に就いた。ところがその夜、急死してしまった。ちょうどそのころ、パリ講和会議が開かれており、高宗がかつてのハーグのように密使を派遣することを恐れた日本が、侍医を買収してお茶に毒を盛ったといううわさがたった。この噂が人々に広がると、日本の植民地支配への怨みの感情に火を付け、三・一運動が起こったといわれている。<姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』1992 朝日文庫 p.36-37>
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ノートの参照
第14章3節 ウ.日本の韓国併合
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姜在彦
『日本による朝鮮支配の40年』
1992 朝日文庫