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高宗

朝鮮王朝の国王。大院君の次男。1873年、大院君を引退させ親政を開始するが、王妃の閔氏一派、清・日本・ロシアの干渉などで苦しむ。日清戦争後の1895年、下関条約で清が朝鮮に対する宗主権を放棄し独立は承認されたが、閔妃暗殺事件などで日本に反発、ロシアに接近した。1897年、大韓皇帝となるも1904年の日露戦争を機に日本の関与が強まり、1905年に日本の保護国となったことで主権を奪われた。1907年、ハーグ万国平和会議に密使を送って訴えたが密使事件の責任を朝鮮統監の伊藤博文に追求され、退位した。1919年死去の際には朝鮮で三・一独立運動が起こった。

 高宗(こうそう、コジョン、1852-1919)は朝鮮王朝(李朝)の末期の国王(在位1863~1907)。宮廷の実力者大院君の次男として生まれた。その生涯は日本の明治天皇(1852-1912)と重なっている。先王哲宗が子なくして没したとき、12歳で即位し、実父である大院君が摂政となった。このころ外国勢力の開国要求が強まっていたが、大院君は攘夷思想に基づいて排外政策をとり、フランスやアメリカの侵攻を撃退し、人気を高めた。1873年に成人して大院君は隠居し、親政を行うこととなると、大院君は父親にあたるが強引な政治が多かったので、父を遠ざけ、もっぱら王妃の閔妃(びんひ、ミンビ)に従い、その一族を登用した。これは一種の無血クーデタと捉えられ、癸酉政変ともいわれた。このように王妃の一族の外戚が宮廷で実権を握ることを勢道政治(世道政治)といい、朝鮮王朝の悪しき伝統となっていた。ただし高宗の親政開始からしばらくの間は、閔妃及び閔氏の政治介入も多くはなく、高宗の独裁に近い状況だった。

開国とその後の苦悩

 明治維新で近代化を開始した隣国の日本が1875年に江華島事件を起こして朝鮮に対して開国を迫ると、1876年、高宗は要求に応じて日朝修好条規を締結し、開国に応じた。その背景には宮廷内に大院君の強引が排外主義が時代に合わないと考える官僚があらわれていたことによるが、その内容が不平等条約であることはあまり自覚されず、日本は江戸時代に朝鮮通信使を通しての国交があったのでそれを復活した、という認識であったようで、一方での衛正斥邪も根強かったので、欧米諸国とはこの段階ではまだ交渉を拒否していた。
 その後、朝鮮宮廷では宗主国である清朝と結ぶ保守派は事大党といわれ、依然として力をふるっていたが、開国に伴い、日本に倣って近代化を進めようとする開化派が若い官僚層の中に増えていった。宮廷ではこの両派の対立に、清と日本のいずれと関係を強めるか、をめぐる対立が続き、高宗の統治もその両派の間を揺らぐように動いて一定しなかった。

壬午軍乱

 高宗・閔妃政権は開化派が強まり、1882年にはアメリカとの通商条約を締結、さらにイギリス・フランスなどに対しても開国を進めた。一方、国内では開国に伴う米穀の不足、物価の高騰などに対する不満が高まり、1882年に兵士と民衆が暴動を起こし壬午軍乱となった。高宗は事態収束のため大院君の復活を要請、大院君は閔氏と開化派を一掃したが、閔氏政権側の要請を受けた清がただちに介入して軍隊を派遣、大院君を拉致して天津に幽閉(以後三年間幽閉が続く)、閔妃一派を復権させた。これによって清は宗主国としての立場を強め、高宗の国王としての権限は強く制限されることとなった。

甲申政変

 高宗・閔妃政権は清の後見のもとで、清との協力を進めようという穏健開化派を登用して政治を進めたが、それに対して清の宗主権から独立して日本にならった改革を進めようという急進開化派が次第に台頭した。彼らは独立党ともいわれ、金玉均や朴泳孝らがその中心にいた。高宗・閔妃は清の圧力もあり、徐々に独立党を排除するようになると、金玉均らは一気に閔妃と清の勢力を除外しようとして日本の協力により、1884年12月にクーデタを実行した。しかしこの甲申政変も、いち早く介入した清によって日本軍も排除され、失敗に終わった。

清の干渉

 甲午政変によって日本は後退、清は宗主国である立場を強めて袁世凱を通じて高宗・閔妃に圧力を加えた。高宗が反発して独自の外交を行おうとアメリカなどに使節を送ると、袁世凱は高宗を牽制するために大院君を帰国させ、高宗の退位を画策した。しかし大院君が実子を国王にしようとしたことが事前に漏れて幽閉されたため、高宗退位は実現しなかった。
 こうして表面的には高宗・閔妃の王政は安定したかに見えたが、その頃から民衆の中に西洋と日本の侵出に対する反発が強まったことを背景に東学といわれる農民集団が運動を組織化し始め、朝鮮社会を揺るがす動きとなっていく。

日清戦争

 甲申政変後、清の支配力が強まったことに日本は強く警戒し、反撃の機会を狙っていた。1894年2月に東学が蜂起し、反乱は朝鮮南東部を中心に各地に広がっていって甲午農民戦争といわれる状況となった。高宗はこの民衆反乱を朝鮮だけで抑えることは不可能と考え、清に軍隊出動を要請した。清軍の出動を知った日本軍も天津条約に基づいて出兵した。しかしまもなく東学軍は政府の講和の働きかけに応じて撤退し、終息した。
日本軍の王宮占領 清を朝鮮から排除する好機と捉えていた日本は、開戦の口実を得るため7月23日、大鳥圭介公使が指揮して軍を漢城の王宮に入れて高宗・閔妃を拘束して清軍に対する撤退命令を出させた。高宗はやむなく撤退命令を出したが、清軍が応じなかったことを理由に、日本は軍事行動を開始した。こうして1894年日清戦争の開戦となった。高宗は中立を宣言したが、実際には清の勝利を期待したと言われる。
甲午改革への不満 日本は朝鮮王宮を抑えた上で、高宗に迫り、政府から閔妃一族や親清派を排除し、またまた大院君を担ぎ出して政権を担当させ、親日的な開化派金弘集などを閣僚として改革に当たらせた。新たに公使となった井上馨は高宗・閔妃に面談し、事細かに改革を要求、それに沿って甲午改革と言われる近代化政策がとられることになった。甲午改革では日本にならった行政組織の導入、科挙の廃止、両班身分の廃止、財政の近代化などが図られたが、高宗はそれによって朝鮮王朝古来の国王の専制的権力が減少することに強い不満を持つようになった。
下関条約 日清戦争は日本優勢のまま下関での講和会議となり、1895年4月に下関条約が締結され、その第1項で朝鮮の独立国家であることが規定された。これによって朝鮮の独立は承認され、清を宗主国とする属国という立場はなくなった。

三国干渉による日本の後退

 下関条約締結のわずか6日後にロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が行われ、日本政府はこの三国との戦いに入る余裕はなかったので、要求を容れ遼東半島を清に還付した。一方で日本は多額の賠償金と台湾・澎湖島の割譲は下関条約が批准されたため獲得しており、現実的な判断であったが、それ以上に日本がロシアの攻勢に押されて干渉を受け入れたことで朝鮮における力関係では大きく後退することとなった。

閔妃暗殺事件

 日清戦争の後、ロシアとの関係を強めている高宗・閔妃に対して、日本は朝鮮政府内の親露派を排除する策を練るようになった。1895年に現地の日本公使が日本人や親日勢力を率いて宮廷に押し入り、親露派の中心にいると考えていた王妃閔妃を殺害するという閔妃暗殺事件を起こした。日本はこのときも大院君を首謀者とする工作をして、一種のクーデタとして事件を終わらせた。大院君のもとで親日的な穏健開化派金弘集らが新たな内閣を組閣し、日本にならった近代化改革を進めながら、事件を一部の訓錬隊の暴発として処理した。日本人の関係者は不平等条約で治外法権が認められていたため朝鮮では裁けなかったが、事件は国際的にも知られることとなり、日本人の関与も明白だったので、三浦公使らは召喚され裁判に付された。しかし王妃殺害の実行犯は特定できないまま終わった。
 結局、公使以下の日本公使館員、兵士、日本人壮士が関わっていたことは事実だったので、高宗は日本に対する信頼をなくし、次第にロシアへの接近を図るようになった。また民衆も閔妃の死を「国母」が殺害されたとして反日感情を強くした。
改革に対する反発 閔妃殺害事件に対して曖昧な態度を続ける金弘集内閣に対しても批判が強まったが、内閣は甲午改革の近代化策を進めることで支持を集めることができると考え、1895年12月末に断髪令を出した。高宗も自ら断髪したが、内心は従いたくなかったのか、外見は断髪は判らないようにしたという。この断髪令は、民衆の素朴な感情を無視したため、強い反発を受けることになり、開化派内閣はかえって窮地に追いこまれた。

ロシア公使館に移る

 1896年2月11日、朝鮮王朝の歴史でもかつてない変事が持ち上がった。国王高宗がその家族と数人の側近をつれて宮殿(景福宮)を離れ、漢城のロシア公使館に遷り、そこに居を移し動かなくなってしまったのだ。ロシア公使館ではシュペイエル代理公使に丁重に迎えられた。それだけではなく、高宗はその直後に漢城各所に掲示を出し、混乱の責任者として現政府の幹部の名をあげて斬首せよと呼びかけた。
 それを知った内閣の首班金弘集らは急いでロシア公使館に向かおうと王宮を出たが、光化門を出たところで興奮した群衆に取り囲まれ、金弘集は輿から引きずり下ろされて撲殺された。それを見た農商務大臣は逃げようとしたが群衆に取り囲まれ、同じように撲殺された。それを聞いた残りの閣僚はそれぞれ変装して日本人居住区に逃げこんだ。
 国王がロシア公使館に遷ったことを「露館播遷」という。高宗は公使館に入った後、内閣の構成に着手し、現内閣を更迭し、総理大臣に金炳始を据え、閣僚に親露派の李範晋、親米派の李完用らで固めた。ロシア公使館を出ようとしない高宗に対しては、ロシア以外の各国公使や閣僚の中にも疑問を呈するものもいたが、高宗はその声を無視し、ロシア公使館を出ようとしなかった。高宗が恐れたのは、断髪令反対で盛り上がっている民衆の動きなど、治安の面で宮殿が危険だったことであった。そのため国王が外国公使館の一室に居座るという異常な状態はその後も続いた。
 結局高宗がロシア公使館を出たのは1897年2月20日であった。1年にわたった「露館播遷」の狙いは何だったのか。それは治安に対する恐怖心だけでなく、内閣主導の改革という近代化路線に対する国王としての抵抗であった。高宗は孤独であっても国王としての権力を行使し、かつて開化派内閣が出した断髪令などの法令をことごとく廃止した。
 景福宮に戻った高宗は、閔妃を改めて王妃であったことに復し、3月2日に諡号を明成とと改めた。高宗が大韓帝国皇帝となってからは明成皇后と呼ばれるようになる。

大韓帝国皇帝となる

1897年10月に国号を大韓帝国(略称韓国)に改め、自らも皇帝を称し、年号も定めて光武とした。

日本の保護国から併合へ

第1次日韓協約 その後、朝鮮半島を巡る日本とロシアの対立が先鋭化し、1904年に日露戦争が起こると、戦争を理由として日本は1904年8月第1次日韓協約を強制し、財政と外交で日本人顧問を置くことを認めさせた。
第2次日韓協約 さらに、日本は日露戦争の講和成立後の1905年11月第2次日韓協約によって韓国の保護国化を断行した。これによって大韓帝国は国家としての外交権を奪われ、高宗は皇帝として強い不満を持つようになった。

ハーグ密使事件

 1907年、第二回ハーグ万国平和会議がオランダの首都ハーグで開催された。万国平和会議は、ロシアのニコライ2世が主催した国際会議で、日露戦争の国際間の武力抗争の回避をめざす会議であり、高宗は国際世論に訴える好機と考え、会議に三人の政府高官を派遣した。特使は、ペテルブルクでニコライ2世に親書を提出した上でハーグに向かった。しかし平和会議委員は、韓国が日本の保護国下ので一国の代表とは認められないと出席を拒否した。結局、ロシア、アメリカ、イギリスも日本の朝鮮支配を認め、韓国特使の万国平和会議への参加は認められず、高宗の思い切った策は失敗に終わった。

譲位強制と民衆暴動

 高宗の特使派遣はオランダ駐在の都築大使から日本の外務省に直ちに報告され、朝鮮統監伊藤博文の許可無く特使を派遣したとしてハーグ密使事件といわれた。伊藤博文は7月3日、高宗に面会し、次のように恫喝した。
「かくの如き陰険なる手段を以て日本の保護権を拒否せんとするは、寧ろ日本に対して堂々宣戦を布告せらるるの捷径(しょうけい、近道)なるに若(し)かず。<『伊藤博文伝』下>
 伊藤博文は日本政府には、高宗に対し日本との協約違反であることから、「日本は韓国に対し宣戦の権利あるものなること」を総理大臣を通じて通告したと報告している。<山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.197>
 この圧力によって韓国政府内にも高宗の責任を追求する高官もいた。孤立した高宗がやむなく18日夜、譲位の意思を表明すると、その情報はただちに市中に知らされ、自強会、同友会、キリスト教青年会などが中心となって二千人がソウルの大通りに集まって譲位反対の気勢を上げた。群衆は夜を徹して韓国政府が日本に屈して譲位に合意したことに激しい抗議の声を上げた。19日夜、譲位が公表されると集まった群衆と日本警官が衝突、警官が重傷を負い、民衆側にも死者が出た。伊藤博文統監は暴徒鎮圧の命令を皇帝に出すよう要請、高宗はそれに屈して暴徒鎮圧を命令した。それを受けて朝鮮駐箚軍司令官長谷川大将は日本軍を出動させ、王宮を占領、ソウル市内にも巡察隊を送った。李完用首相以下の政府要人は民衆の襲撃を恐れて日本の保護下に入った。高宗は子の純宗に譲位、翌1907年7月20日、新帝純宗の即位式が強行された。重装備の日本軍が警備する中で行われた即位式には新旧両皇帝が出席しないという異様なものであった。
第3次日韓協約 伊藤博文はこの好機をとらえ、1907年7月24日、李完用首相らに対して第3次日韓協約を示し、直ちに閣議を開かせ、日本の示した原案を一字一句修正することなく可決させ、即位したばかりの若い皇帝純宗の承認を得て、成立した。日本が協約の原文を見せてから調印が終わるまで、たった一日の間であった。この第3次日韓協約で、大韓帝国は軍隊を解散させることになり、外交権に続いて軍事権も失った。<山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.200>

韓国併合

 1910年8月22日、日本政府は韓国併合を断行した。これによって大韓帝国は消滅し純宗は最後の皇帝となった。日本政府は純宗に李王、その父の高宗に李太王という称号で与え、日本の皇族として扱った。なお、李王の後継者は弟の李垠(ギン)が王世子となり、日本人の梨本宮家の方子(まさこ)が配偶者となった。
 日本は統監府に代えて朝鮮総督府を置いて植民地統治を開始し、李太王(高宗)は実質的な軟禁状態に置かれ、1919年に亡くなった。この時、民衆の中に、高宗は朝鮮総督府によって毒殺されたという噂が流れ、それが1919年三・一独立運動の元の一つとなった。

資料 韓国駐留日本軍司令官の報告

 日本政府の林外相に宛てた統監代理韓国駐箚軍司令官長谷川好道(大将)の明治40年9月3日付報告。
(引用)海牙(ヘーグ)平和会議に於ける韓国皇帝密使事件より延(ひい)で皇帝譲位の事あるや韓人の多くは日本の圧迫に出でたる大臣の奏請に依るものと為し、一般を通して甚(はなは)だ憤慨の念を抱きたるものの如く当時に於ける状況左のごとし。(中略) 群衆の韓人は…各所に路傍演説を試み激語を弄して既に軒昂せる群民の意気をして益々憤激せしめたり。殊に甚だしきもは最も慷慨の態度を以て曩(さき)に国母を失ひ今また将に国父を失はんとす。国民此の際に処して焉(いずくん)ぞ晏然たるを得んや。…宜しく国賊たる大臣を殺すべし、而して其の家を焼くべし、吾人同胞此の決心を以て王城前に集合すべしと演説する者あるに至れり。(下略)<『近代史史料』1988 吉川弘文館 p.360 原文カナ交じり文をひらがなに改めた>
同報告はこの他、韓国兵が巡査派出所に発砲したこと、暴徒は新聞社を襲撃し、総理大臣李完用邸を焼き打ちしたことなどを伝えている。同報告は高宗は日本に拉致されたといううわさもあったことも伝えており、韓国民衆にとって高宗の譲位は閔妃暗殺とならぶ衝撃だったことが窺える。

Episode 新旧の皇帝がいない即位式

 大韓帝国皇帝高宗は、ハーグ密使事件の責任をとって退位し、その地位を息子の純宗に譲った。この譲位式は、新旧帝とも参加しないという、世界にも例のないものだった。それ以後、高宗は危険人物だと言うことで、日本側によって軟禁状態に置かれ、1919年1月に急に亡くなった。朝鮮では日本が軟禁していた高宗を毒殺したといううわさが広がり、それが三・一運動の導火線になった。
 その息子の純宗は、1898年に宮廷内部から排除された親露派が、怨みをいだいて紅茶に毒を盛るという陰謀事件があり、そのため廃人同様になってしまっていた。そういう人間を国王にしてロボットにしようとしたのだった。<姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』1992 朝日文庫 p.36-37>

その死と三・一独立運動

 その後、日本の韓国支配は、安重根による伊藤博文暗殺事件を機に最終段階に達し、1910年8月韓国併合が行われ、韓国は主権を完全に喪失した。日本統治下で、前皇帝高宗はその後も余生を送っていたが、1919年に急死した。これは、当時第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激された朝鮮の民族運動を事前に抑えるために、日本が毒殺したのではないか、という疑いが持ち上がり、それが同1919年3月1日三・一独立運動のきっかけとなった。

Episode 高宗の毒殺説

 高宗はハーグ密使事件で退位させられてから、実質的に軟禁状態に置かれていた。その子の李王垠が日本の陸軍幼年学校から士官学校を出て、梨本宮の娘方子(まさこ)と婚約した。1919年1月21日、その婚儀の4日前にして、高宗は側近を集めて酒を振る舞い、本人はお茶を飲んで寝に就いた。ところがその夜、急死してしまった。ちょうどそのころ、パリ講和会議が開かれており、高宗がかつてのハーグのように密使を派遣することを恐れた日本が、侍医を買収してお茶に毒を盛ったといううわさがたった。この噂が人々に広がると、日本の植民地支配への怨みの感情に火を付け、三・一運動が起こったといわれている。<姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』1992 朝日文庫 p.36-37>
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書籍案内

山辺健太郎
『日韓併合小史』
1966 岩波新書

姜在彦
『日本による朝鮮支配の40年』
1992 朝日文庫

木村幹
『高宗・閔妃』
2007 ミネルヴァ書房