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閔妃暗殺事件

1895年、朝鮮王妃で実権を持っていた閔妃が日本公使らによって暗殺された事件。

朝鮮王朝は、日清戦争の結果の下関条約で清の宗主権が否定され、正式に独立を確定させた。続いてロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清に返還すると、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心が閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)であった。その動きを危ぶむ日本の公使三浦梧楼は、1895年10月、公使館員等を王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った(乙未事変ともいう)。

『閔妃暗殺』

 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物

 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある〝決意〟をもって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や青年戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行

 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後

 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを召還し、裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移し、金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの

 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。
(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、〝国のため〟であれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、〝美挙〟と化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>
 角田女史の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。最近、〝愛国無罪〟なんていうばかばかしい言葉をよく聞くが、われわれもこの事件をそんな言葉でかたづけてしまうのではなく、事実に目を向けていくことが必要であろう。
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ノートの参照
第14章3節 ウ.日本の韓国併合
書籍案内

角田房子
『閔妃暗殺』
1988 新潮文庫
観樹将軍回顧録
三浦梧楼
『観樹将軍回顧録』1988 中公文庫