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五カ年計画(第1次・ソ連)

1928年から、ソ連のスターリンが指導した社会主義国家建設計画。工業の重工業化と農村の集団化が強行された。

 1928年から1932年の間、ソ連のスターリンの指導で実施された、急激な重工業化と農村集団化を柱とした、社会主義国家建設計画。スターリン政権は一国社会主義論を掲げて敵対する勢力を排除し、それまでの新経済政策(ネップ)を否定し、社会主義経済建設をめざして立案した。産業の基本部門である鉄鉱・機械・石炭などの重工業の建設と、生産向上のための農業の集団化の推進が柱であった。計画目標は、全工業生産高の250%増、重工業は330%増、そして農業生産は150%増、農地の20%の集団化、という途方もないものであった。この計画の下で工業建設、農業集団化は猛烈なスピードで進み、1932年までにソ連を先進資本主義諸国と並ぶ工業国に仕上げ、集団化の強行による農業生産の増産が進められた。当時アメリカ・イギリスなど資本主義国は、1929年に始まる世界恐慌のただ中にあったが、社会主義経済体制をとったソ連はそれに巻き込まれることがなかった。その成功を足場にスターリンは独裁的な権力を獲得した。

五カ年計画の理由と背景

 1928年10月1日、第一次五カ年計画が導入された理由としては次の三点があれられる。
  • 社会主義の実現というイデオロギー上の理由。マルクス主義では社会主義社会は高度に工業化された社会において実現されると考えられていた。レーニンもその考えに立ち、「共産主義とはソヴィエト権力プラス全国の電化である」と述べている。その考えに基づきすでに1921年にソヴィエト政府は国家計画委員会(ゴスプラン)を創設し、計画の立案を開始していた。また、資本主義の自由競争を諸悪の根源と考え、国家による計画経済という社会主義の理念の実現という強い意志があった。スターリンの一国社会主義路線が勝利を占めたことで、ソ連で計画経済に基づく工業化に着手できる状況となった。
  • ネップの行き詰まりの打開という経済的理由。戦時共産主義に代わる新経済政策(ネップ)は現実的必要性から生まれた政策であり、一応の成果をあげたが、同時に矛盾も進行した。農村では生産量は増加したがそれは耕作面積の増大によるものであり、面積あたりの収穫率は増加していなかった。つまり技術的な増産ではなかったため、耕地拡大が一定の限界に達すると生産量も停滞した。また穀物価格も工業製品に対してあまりに安価であったため、農民の耕作意欲も向上しなかった。1927~28年にかけて農民の不満から穀物の調達が危機に陥っていた。そのような中で、工業をどのように発展させるかが課題となり、軽工業から重工業への自然な成長を待つのではなく、一気に重工業化を進め、農村も機械化に対応する集団化を進めるべきだという見解が強まった。
  • 国際的背景。1920年代のヨーロッパでは国際協調が進み、諸外国によるソ連承認も進んだが、社会主義ソ連に対する敵視は基本的には依然として強かった。また新たな要素として、ヨーロッパにおけるファシズムの台頭、アジアにおける日本の大陸進出などが1930年代に開始され、スターリン・ソ連はそれらを軍事的脅威と受け取り、潜在的敵に対して重工業化を急ぐ必要があると考えた。
<参考 外川継男『ロシアとソ連』1991 講談社学術文庫 p.347-348>

重工業化へのアメリカの協力

 ゴスプラン(国家計画委員会)が第一次五ヶ年計画の重要な部分として実行した最も有名な計画が、ドニェプロストロイとして知られるドニェプル河流域の大ダムと水力発電所の建設だった。1926年夏、テネシー河流域ダムを建設したアメリカ人技師クーパーが顧問兼助言者として雇われた。この計画は、アメリカの技術と設備、アメリカ人技師集団の徴募を必要としていた。ここで生み出された電力は、ドンバス炭鉱と、ザポロージェとドニェプルペトロフスクという二つの新しい工業都市に供給される計画であった。それがこれらの工場が全面的に操業されるようになったのは1934年ごろのことだったが、そのなかでも自動車工業の発展は大きな注目を集めた。革命以前にはロシアでは1台の自動車も製造されていなかったのが、1929年にはニージニー=ノブゴロドの自動車工場建設のため、デトロイトのフォードとの協定が調印され、10年以内に年間20万台の生産が計画された。
 トラクターは農村集団化の鍵と考えられていた。1920年代はじめにレニングラードのプチロフ工場で数台のトラクターが作られたが、1923年以後はアメリカ合衆国から数百台のトラクターが輸入された。1929年秋にはソ連全土で3万5千台のほとんどはアメリカ製のトラクターがあるだけだった。5カ年計画では1年に5万台の生産が決定され、農村の近代化と集団化にむけて全国のトラクターセンターに配備されていった。またあまり言及されないが、五カ年計画で重視されたのは軍事産業であり、ドイツとの秘密軍事協定の刺激もあって秘密裏に航空機と戦車生産が進められた。さらに電力を利用した化学工業も重視され、集団化の進む農村への農薬を提供した。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.187,209-211,221>

農村集団化の実態

 農業集団化は富農(クラークという)の土地没収にとどまらず、小農経営も制限されたため多くの農民が反対したが強権的に進められ、反対する農村は村ごと移住させられるような状況であった。集団化した農村はコルホーズといわれ、農民は自給できるわずかな菜園と家畜だけの私有が認められるだけで、国家の出先機関であるトラクターセンターのトラクターを使って公有地を共同で耕作し、生産物はコルホーズが管理してまず国家に収め、トラクター使用代を機関に収め、残りを農民で分配した。また国家は模範的な国営農場としてソフホーズを運用した。
 コルホーズは次々と設置されていったが、トラクターの分配は十分でなく、土地を奪われた農民の生産意欲も落ち、そのため生産力は減退した。1931年と32年は凶作が重なり、多くの餓死者が出た。その数は算出することはできないが、100万から500万人というるという幅でみつもられている。このようなことが実態であったが、ソ連の官制の歴史では「五カ年計画の偉大な成功」によってソ連は「発達した社会主義」の段階に達したという評価が行われた。
(引用)集団化は、1917年に農民による地主所領の奪取で始まった土地革命――しかし、それは古い耕作方法と農民の生活様式を変えずに残した――を完了させるものであった。最終段階は、第一段階とは違って、自発的農民反乱には何一つ負っていなかった。スターリンはそれを適切にも「上からの革命」と呼んだが、それが「下から支持され」たと付け加えたのは正しくなかった。・・・一旦、強力なモスクワの中央権威が経済の計画化と再組織化に着手して、工業化の道に乗り出すと、そしてまた、現制度下の農業では急速に拡大する都市と工場の人口の必要に応えられないことが明らかになると、急転回は論理的帰結であった。砲火が交えられ、双方の側で非常に執拗かつ激烈に戦い抜かれたのである。・・・・党は農村に確固たる足がかりを持っていなかった。モスクワで決定を下す指導者も、その決定を実施するために農村を急襲した党員とその支持者の大群も、農民の心性の理解なり、農民の抵抗の核である古くからの伝統と古い迷信への共感なりをもたなかった。相互の無理解は完全なものであった。・・・力は当局の側にあり、残酷に容赦なく行使された。農民――クラークだけではなかった――は、むきだしの攻撃としかみえないものの犠牲となった。偉大な業績として計画されたものは、ソヴェト史に汚点を残す大きな悲劇の一つに終わった。・・・この過程に伴った災厄からソヴェト農業が回復するのには、多くの年月がかかった。穀物生産が強制的集団化開始以前の水準に戻ったのは、1930年代も末期のことであった。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.231-232>

計画経済の展開

 当時、世界恐慌に苦しんでいた資本主義諸国では、ソ連の五カ年計画は「計画経済」の成功と受け取られた。イギリスのフェビアン教会の指導者ウェッブ夫妻がソヴィエトの実験を「新しい文明」の誕生として賞賛しただけでなく、多くの社会主義者がそこに希望を見いだした。しかし、五カ年計画の実態はほとんど知られることがなく、むしろ世界恐慌に巻き込まれなかった社会主義国、そしてスターリンの勝利と受け止められていた。
 なお、5ヵ年計画はその後も継続され、ソ連では第6次まで実施された後、61年からは7年計画に改められ、ソ連崩壊まで続いた。中国でもソ連の5ヵ年計画にならって、1953年から57年の第1次から2006年の第11次まで続いている。 → ソ連の第2次五カ年計画(ソ連)  中国の五カ年計画(第1次)  
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ノートの参照
第15章2節 オ.ソ連の社会主義建設
書籍案内

外川継男
『ロシアとソ連』
1991 講談社学術文庫

E.H.カー/塩川伸明訳
『ロシア革命』
1979 岩波現代文庫