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第1次五カ年計画(中国)

1953年~57年の中華人民共和国における社会主義建設計画。ソ連にならった計画経済を採用し、工業化と農業の集団化(合作社)が進められた。当時はおおむね目標は達成できたと評価された。1958年からの第2次は、ソ連との対立が始まったことで大きく性格を変化させた。

 1953年6月に開始された中華人民共和国の社会主義建設方針を具体化した政策。それは中国共産党毛沢東によって提起された、「過渡期の総路線」の基本内容であり、3次にわたる五ヵ年計画によって明確に社会主義国家を建設するという構想の第一歩とされた。中国の第1次五ヵ年計画はソ連の五カ年計画(第1次)を模範として計画的な国家の統制のもとで工業・農業における生産力の向上を目指し、ソ連の技術と資金の全面的な援助で実施された。五カ年計画によって、一歩一歩、農業・手工業を社会主義的な集団所有制に移行させ、また資本主義工商業を逐次社会主義的な全人民所有制(国有・国営)に改造し、「独立した工業体系」と国防力を備えた富強の社会主義国の建設に向かい、その社会主義の理念は、翌年に制定された中華人民共和国憲法に盛り込まれた。第1次五ヶ年計画は、1957年までにほぼ目標を達成した。
社会主義化を急いだ背景 中華人民共和国は建国当初は社会主義を理想とはしながら、現実には共産党以外の知識人や技術者を取り込むために、毛沢東の唱えた当面は民主勢力と協力する「新民主主義論」を国家の基本に据えていたが、1951~53年の朝鮮戦争に参加して、アメリカ軍と直接交戦し、軍備での遅れが明確になったことで、アメリカ帝国主義との戦いに備える軍事力の基盤としての社会の近代化を急がなければならないと意識するようになった。それが、社会主義国家建設を急ぐようになった背景であった。

工業化と農業集団化

 中国の1953年に開始された第1次五ヵ年計画の主要な内容が「工業化と農業集団化」であった。当時中国は、農民が80%以上を占める農業国であり、重工業はほとんど存在しなかったので、全面的にソ連の工業技術・経済援助に依存して、武漢・包頭・鞍山の鉄鋼コンビナートを中心とした重工業優先の重点方式がとられた。その結果、中国の工業化は急速に進み、56年には総生産額で工業が農業を追い抜いた。一方の農業の集団化は、当初は土地その他の生産手段は各戸の私有が認められた上で集団で耕作する「合作社」(40戸程度までの自然村落に造られたのが初級合作社、平均160~170戸からなるのが高級合作社)が急速に造られ、56年末までに96.3%が集団化された。なお、農業集団化と並行して、手工業者は手工業生産合作社に組織し、私企業に対しては公私合営として生産手段を国家が買い取り、実質的に国有国営化を図った。また商人も商業合作社に組織された。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.208-212> → 人民公社
(引用)かくて、1953年に第一次五ヶ年計画が実施に移されると、農村での集団化はあっという間に進んだ。毛が、集団化に慎重な声に対して、歩みが速いことに泣き言をいう「纏足をした婦人」(1955年)のようなものと一喝したことも影響した。それまで「生産互助組」という名の営農集団(20~30戸が農繁期に協同作業)レベルだったものが、1956年末には二百~三百戸レベルの高級合作社(土地共有)が中心となった(全農家の87.8%)。かつてのソ連のような集団化への抵抗はほとんどなく、共産党は自身の統治が農民の支持を得ている証しとみて自信を深めたが、実はその後、この集団化によって農業の生産性が上がることは結局なかった。……
 一方、工業建設に目を転じると、ソ連の全面的な支援と技術協力もあり、重点であった重工業プロジェクト150件が企画・実行され、またこれと並んで民間企業の国営化へ向けた措置も次々ととられた。……すでにこれ以前に、生産物の価格や賃金水準などで民間企業のもつ裁量権が大きく低下していたこともあり、商工業における全般的な集団と国営化は短期間で進行した。
 かくて、経済の公営化により民間セクターがなくなることが社会主義化だと理解されていたが、1956年初めには各地で「社会主義達成」の大がかりな記念祝賀行事が行われ、同年9月の党第8回大会でも社会主義化が基本的に完成し、今後の課題が生産力の発展であることが確認された。かくて翌年には、第一次五ヶ年計画も超過達成され、共産党指導者たちは、国の舵取りに手応えを感じていったのだった。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021  筑摩選書 p.256-257>

社会主義経済の五カ年計画

 資本主義社会では企業の自由競争による利潤追求が経済活動の根幹におかれ、国家は基本的には経済統制を最小限に留めるのが良いとされているが、社会主義では自由競争による弱肉強食があらゆる社会不正の根源にあるとされるので、経済活動の柱は計画経済に置かれ、労働者の立場に立つ共産党など社会主義政党が権力を握り、その指導によって生産と消費が平等に行われなければならない、とされる。そこで社会主義国家では計画経済をよく「五カ年計画」というサイクルで進めていくことが多い。その始まりは1928年からのソ連の第1次五カ年計画であり、特に世界恐慌で深刻な打撃を受けた資本主義世界に対して社会主義経済の優位が喧伝された。その後もソ連では第6次まで繰り返され、1960年に終わった。その後は七ヵ年計画とされた。中国では建国後の1953年の第1次から始まり、1978年に改革開放政策に移行してからも継続されている。北朝鮮のように、六ヵ年計画とか七ヵ年計画とか年数が一定していない国もある。
ソ連と中国の違い 中国の第1次五ヶ年計画は、いわば本家であるソ連のそれを模範としたものであって、基本的には計画経済によって工業・農業それぞれでの生産力を高めることを目指した点では共通しているが、次のような相違点も指摘されている。
  • 中国の五カ年計画はソ連のそれに比べて工業(特に重工業)建設に大きく偏重していた。ソ連の第一次五ヶ年計画では工業向け投資は全体の27%で、農業向け投資の38%を下回っていたが、中国では工業向けが全体の約58%と突出しており、農村向けは8%に届かなかった。この工業発展に偏重した計画は当時の中国が圧倒的に農業国であり、いかに農業中心の後進的経済状態から脱却するかが眼目だった。
  • 中央政府の統制の範囲が、中国は狭く、ソ連は広かった。中国は(国家機構が未発達だったため)統制の及ぶ範囲はごく狭かった。ソ連の計画経済は国家計画委員会(ゴスプラン)を中枢司令塔とし毎年二千種類の統制品目をリストアップしていたが、中国で国家計画委員会が管掌していたのは1953年当初は115品目、56年までにようやく380品目だった。国家の統制が及ばなかった品目は、地方政府や企業が供給・調達を担っていた。中国はかなり「ゆるい」計画経済だったと言える。
 しかし中国の第一次五ヶ年計画が重工業に偏重し、農業・農村に近代的な投資を行わなかったことのきしみは、やがて顕在化することとなる。<石川禎浩『前掲書』 p.257-259>

第2次五ヶ年計画へ

 第1次五ヶ年計画はソ連の支援によって開始されたが、それが進行した5年間にソ連に激変が生じた。1953年にスターリンが死去、集団指導体制に移行する中でスターリン独裁による粛清などの闇が暴露され、1956年にスターリン批判が始まった。外交面でもフルシチョフ政権は平和共存に転じ、雪どけと言われる冷戦の変化が生じた。毛沢東は同調せず、フルシチョフを厳しく非難し、その論争はいわゆる中ソ対立へと両国を向かわせた。
 1958年から始まった次の第2次五ヵ年計画は、ソ連の技術と資金の支援のない中で始まり、「大躍進」運動のかけ声で、独自技術による鉄鋼増産と人民公社による農村の集団化の徹底が図られた。しかし、「大躍進」運動は無謀な計画がかえって生産減退を招き、失敗に終わった。そのため指導力に陰りが生じた毛沢東が、それを挽回するために始めたのが文化大革命であると考えられる。
POINT  第1次五ヶ年計画のポイント 目標が「工業化と農業の集団化」であり、工業化は武漢・包頭・鞍山の鉄鋼コンビナートを中心とした重工業が優先されたこと、農業の集団化は土地私有も一定程度認める「合作社」による、というのが内容で、それらが友好な関係にあったソ連の技術援助で行われ、ほぼ目標を達成した点である。それに対して第2次五カ年計画(1958~62)は「大躍進」のかけ声の下で行われたが、中ソ対立のためソ連の援助が得られず、工業化では中国独自方式(土法高炉)により鉄鋼生産、農業では人民公社による農村集団化など、いわば中国型計画経済とも言えるもので、そのいずれも失敗したとされた点で異なっている。

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小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書

石川禎浩
『中国共産党、その百年』
2021 筑摩選書