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コルホーズ

ソ連の第1次五カ年計画から推進された、集団農場のこと。土地・農具を共同所有し共同作業によって生産した。農民は一定の私有地を持つことは出来た。一切の私有地のないソフホーズ(国営農場)とは異なる。

 1928年に始まるソ連スターリン政権のもとで進められた、第1次五カ年計画の社会主義体制建設の柱に位置づけられた農業の集団化政策によって各地に設置された。コルホーズ(集団農場)は、農民が生産手段をプールし収穫を分配する協同組合組織。次の三種がある。
 ・コンムーナ(コミューン)……一切の道具および家畜は成員の共有。共同家屋に住む。
 ・トズ……農民は小さな土地・家畜・道具を所有して共同作業を営む一種の生産協同組合。
 ・アルテリ……コンムーナとトズの中間。土地・農具を共同所有し共同作業による生産。農民は自分の家畜と小さな菜園を所有する。菜園でとれた作物は自家用にしあるいは市場へ売る。
 コルホーズの最も一般的形態はアルテリで、1933年までに全集団農場の96%がアルテリであった。アルテリは国家に従属している。国家の出先機関のMTC(機械・トラクター・ステーション)が個々の農家ではなく、アルテリと契約し、農業機械を提供する。収穫はまず国家に引き渡し、次にMTCに支払い、最後に残ったものを個々の世帯が分配した。それに対してもう一つのソ連社会主義に農業形態であるソフホーズは、一切私有地はなく、すべてが国有の土地で、国有のトラクターなどで耕作し、農民は雇用される形をとって給与を支給されるものである。

コルホーズの設置

 農業の集団化は計画を上回るテンポで押し進められ、各地にコルホーズとソフホーズが設立された。第2次五カ年計画の終わった1937年までに、全農家戸数の93%、播種面積にして99%が集団化された。これに反対する農民の抵抗は随所に見られたが、とくにウクライナと北カフカーズで激しかった。彼ら土地所有にこだわった農民は「クラーク」とか「イデオロギー的クラーク」、「準クラーク」といったレッテルをはられ、つぎつぎに逮捕された。このようにして強制的に辺境の収容所へ集団移住させられた農民の数は500万から1000万と推定されている。<外川継男『ロシアとソ連』1991 講談社学術文庫 p.349>

コルホーズの変質

 コルホーズ(農業生産協同組合)とソフホーズ(国営農場)はその後もソ連の社会主義計画経済の根幹となる食料生産機構として維持された。しかし、ソ連の農業は五カ年計画のもう一つの柱である急速な重工業化を支える工場労働者の食料を安価に調達するための組織という側面が強く、必ずしも農民自身を豊かにすることを目指すものではなかった。
 コルホーズ・ソフホーズは戦後、集約化が進められて生産力を向上させ、1978年のソ連の小麦生産量(1億2080万トン)は世界の27%を占め、アメリカやインド、オーストラリアをはるかにしのいだ。しかし、労働生産性は非常に低く、アメリカの5分の1以下であった。政府はコルホーズの集約化と統合を進め、その規模は1940年の平均81戸から87年には461人(共同経営作業従事者数)へと拡大した。また農民の生産意欲を高めるため、コルホーズでも月給制が導入されるなどの改革が進められた。また果物、野菜、食肉などでの住宅附属の個人経営に依存するようになった。<木村英亮『増補版ソ連の歴史』1991 山川出版社 p.196>
 これらのコルホーズへの資金は補助金という形で国家から支給されたので、生産効率の悪化を補助金で補いながら維持するようになったことは、ソ連財政を圧迫する要因ともなった。

コルホーズの消滅

 1986年から始まったペレストロイカが進行する中で、ソ連の農業生産のあり方にも変更が加えられて1988年に協同組合法が採択され、新しい「コルホーズ模範定款」が定められた。これは従来の全面的集団化が農業経営の協同化そのものよりも穀物調達危機への対応を直接の目的としていたため、農民の自発性にもとづかず、農民のイニシアティヴが発揮されなかったことを反省し、協同組合本来の精神に立ち返ろうとするものであった。その後も農業の多様な所有・経営形態、土地私有の導入などが進められた。
 1990年2月のソ連最高会議は「新土地法」を採択、その第3条で「土地は当該地域に居住する人民の財産である」と定めた。これは土地国有の原則を保有しながらソフホーズ、コルホーズともに、終身で相続も可能な土地占有に基づく、農民の私的経営を認めたものである。さらにその年末にロシア共和国で制定された「土地改革法」「農民経営法」は私的土地所有に基づく個人農業経営が正式に認められ、他の社会主義的企業と対等の扱いをうけられるようになった。<木村英亮『増補版ソ連の歴史』1991 山川出版社 p.219-220>
 1991年にソ連の解体により、旧ソ連邦での経済の民営化が急速に進められた。ロシア共和国においても多くの国営企業が株式会社に転換し、従業員集団なども株を持つようになった。その混乱は工業生産力を著しく低下させたが、農業においてもコルホーズ、ソフホーズの多くはそのまま有限会社、合資会社などとして登録された。農民経営は1994年には総収穫量の5.7%を占めるに過ぎないでいる。<木村英亮『同上書』 p.239-240>

中国の人民公社

 コルホーズは社会主義国家の農業集団化の手本とされ、第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国においても毛沢東の主導のもとで1958年に始まった「大躍進」運動の中で人民公社が建設された。しかしその急速な集団化は農民の生産意欲を減退させ、国家あげての推進運動にもかかわらず、大飢饉がおきるなど負の側面が強くなり、文化大革命の混乱を経た鄧小平政権の下で農家生産請負制度が導入され、さらに1982年に至って人民公社は解体された。

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木村英亮
『増補版ソ連の歴史』
ロシア革命からポスト・ソ連まで
1991 山川出版社