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スターリン

グルジア出身の古参ボリシェヴィキ。1922年、ソ連共産党書記長となる。1924~1953年、ソ連の独裁的権力を握る。

スターリン
Stalin 1879-1953
 1879~1953。スターリンは筆名で本名はシュガシビリ。カフカス地方グルジア生まれ。社会主義運動に参加し1902年以降、流刑・脱獄を繰り返す。1912年からボリシェヴィキに加わり、機関誌プラウダの編集に当たる。革命後は人民委員会議(ソヴィエト政権の内閣に当たる)で民族人民委員となり、レーニンの片腕として次第に地歩を築いていった。
 1922年にロシア共産党書記長となる。1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーとはげしく対立するようになった。

トロツキーとの対立

 両者の対立は主導権争いという面が強いが、次第に革命理念でも違いを際立たせていった。スターリンは一国社会主義論を党の公式見解にすることに成功し、世界革命論をとるトロツキーを次第に追い詰めていった。トロツキー排除の段階ではジノヴィエフ、ブハーリンとともに三者の協力体制をとっていたが、トロツキー排除後は、この二人も次々と排除し、その他の古参のボリシェヴィキをも退けて、て1929年までには党権力を握り、スターリン政権をつくりあげた。

スターリン体制

1929~53年のスターリンが独裁権力を持った時期のソ連の体制。

 ソヴィエト社会主義共和国連邦の歴史で新経済政策(NEP)の時期の次に位置し、1929年スターリンの権力確立から、第二次世界大戦をはさんで、1953年のその死去までの24年にわたり独裁が行われた。

スターリン体制の成立

 スターリンは、1929年にスターリン政権を樹立し、同年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化と農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は政治的な対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。1936年制定のスターリン憲法では、ソ連の社会主義の建設は完了したと認定され、ソ連共産党という「党の支配する国家」が完成し、党の指導者スターリン支配が揺るがないものとなった。

世界恐慌とファシズムの台頭

 1929年、資本主義世界では世界恐慌が起き、ドイツ・イタリア・日本などのファシズム国家が台頭、一方の先進的な帝国主義諸国はブロック経済を形成し自国の利益を守ろうとした。ニューディール政策で国内市場の再建に向かいつつあったアメリカが提携してファシズムと対決する情勢となった。スターリンは、ドイツ、イタリアにファシズムが台頭すると、1935年にはコミンテルン第7回大会で方針を「反ファシズム統一戦線」路線に変更し、イギリス・フランスとも接近を図ろうととした。

独ソ不可侵条約

 しかし、イギリスなどの帝国主義諸国はスターリンのソ連を敵視していたので、ナチス・ドイツに対して宥和政策を採ることとなり、スターリンは英米に不信感を強めて1939年に独ソ不可侵条約を締結し、世界を驚かすこととなった。
 1939年9月、ヒトラー・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入すると、スターリンはドイツとの密約に基づき、ポーランドに侵入し、その東半分を獲得した。さらにソ連-フィンランド戦争を起こし(そのため国際連盟から除名される)、バルト三国を併合するという領土拡張を行った。

独ソ戦の開始

 勢力拡大を東方に転じたヒトラーが1941年、突如、独ソ不可侵条約を破っソ連に侵攻、両国の全面的な独ソ戦が開始された。ドイツを共通の的とすることとなったスターリンと英米首脳とは1943年のカイロ会談以後、戦争の遂行と戦後世界のあり方について、会談を重ねる。スターリンは英米に対し第2戦線(連合国がドイツの西側で攻勢をかけること)を要求し、英米はスターリンに対日参戦を要求した。また戦後構想では国際連合の設立に同意し、三者の合意によって戦後の枠組みができあがった。この間、ソ連はスターリングラードの戦いなどでの激戦でドイツの攻勢を凌ぎ、形勢を逆転させて東ヨーロッパ諸国を次々と解放し、勢力を扶植していった。

戦後のスターリン体制

 1945年5月、ヒトラー・ドイツが降伏し第二次世界大戦が終結すると、特にドイツ問題で米英とソ連の利害の対立が表面化し、一挙にアメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義・共産主義陣営の東西対立という冷たい戦争(東西冷戦)に突入した。スターリンはその後も強大な独裁権力を握って米英との対決姿勢をつづけ、また東欧諸国に対する統制を強め、アジアでは国共内戦を展開していた中国共産党を支援した。しかしスターリン独裁体制は次第に硬直化し、ユーゴスラヴィアの離反などを招き、国内の自由化を求める声も強くなってきた。 → 第二次世界大戦後のソ連

スターリンの死去

1953年3月、ソ連共産党で権力を振るっていた独裁者スターリンが死去した。

スターリンの遺骸
花に埋まったスターリンの遺骸
 1953年3月6日朝、スターリンが前夜に脳溢血で死んだことがラジオで発表された。73歳であった。後継の首相にはマレンコフが就任、共産党第一書記にはフルシチョフが選ばれたが、スターリン体制の下で実権をふるっていた秘密警察の長官ベリヤは7月に逮捕され、その後処刑された。ベリヤを倒したのはのは共産党を抑えたフルシチョフであった。ソ連共産党の指導体制は、集団指導体制を敷いていたが、55年、マレンコフは失脚し、ブルガーニンが首相となった。

Episode 隠されたスターリンの病気

 不死身の印象を与えていたスターリンであったが、実は大戦末期の1945年10月、発作を起こして倒れていた。実務はモロトフ外相が預かった。この時の発作はたいしたことはなかったがモロトフが後継者に選ばれるという噂が流れた。かえってスターリンとモロトフの関係が悪化し、モロトフは次第にはずされていく。
(引用)45年に倒れたスターリンは、それ以降毎年、夏から平均5ヶ月も休暇をとった。クレムリンで執務するのは夜中の数時間のみ、訪問者に会うこともまれになり、郊外の別荘で取り巻きに囲まれて暮らした。極端な秘密主義がスターリンを取り巻き、最高幹部ですら情報が限られた。他の政治局員との関係は家父長そのものだった。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p.138>

スターリン体制の転換

 1953年にスターリンが死去したが、ソ連首脳部は当面は集団指導体制を敷き、スターリン体制は継承された。1955年には西側で西ドイツが再軍備して北大西洋条約機構(NATO)に加わると、ソ連は東欧社会主義圏の諸国との間で軍事同盟であるワルシャワ条約機構を結成し、それに対抗した。一方で、アメリカ及び西側との決定的な対立を避ける機運も生まれ、1955年には戦後初の米ソ英仏四国首脳会談であるジュネーブ4巨頭会談にブルガーニンとフルシチョフが参加した。
 しかし、ソ連の最高権力は党第一書記フルシチョフが獲得していった。実権を掌握したフルシチョフは、1956年にスターリン批判に踏み切った。その背景には、冷戦構造が固定化され、米ソとも核武装、ミサイル開発などの競争を続けることが、ともに財政に大きな負担となっていることがあげられる。