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胡適

中国の文学革命運動の一人。『新青年』で白話文学を提唱し文学革命を進めた。アメリカで外交活動をおこない、戦後は台湾で活躍した。

胡適

胡適 1891-1962

 “こせき”と訓む。20世紀初頭の中国革命期の文学者、哲学者。アメリカに留学して、デューイのプラグマティズム哲学を学ぶ。また、ノルウェーの作家イプセンに傾倒して、帰国後、口語体による文学、いわゆる白話文学の提唱し、文学革命を指導した。雑誌『新青年』はその運動の主な舞台となった。

白話文学の提唱

 1917年1月、胡適は『新青年』に「文学改良趨義」という論文を発表、難解で陳腐な旧来の文語文(漢文)を廃止し、中国語の口語そのままによる文学表現を確立しよう、と論じた。それを受けて次号に陳独秀が「文学革命論」を掲載、平民の文学、写実の文学、社会の文学を創作しようと呼びかけた。文語文は支配層である官吏・文人たちに独占されており、それを否定して口語文で表現することは文学を国民大衆に開放するという革命なのである、という主張であった。胡適や陳独秀の論じた文学革命を、実際の文学作品として生み出したのが、魯迅の『狂人日記』であった。
 しかし、1920年代に入って陳独秀の主催する『新青年』がマルクス主義色を強めると、アメリカに倣った近代化を考えていた胡適はその運動から離れ、五・四運動後は反共産主義の立場を明確にした。

中華民国の民主化のために

 その後、胡適は国民政府蔣介石協力し、中国文化の外国の紹介などに携わっていたが、国民政府による中国統一が達成されても国民党の蔣介石政権が独裁色を強め、「民主化独裁か」の論争が激しくなると、国共内戦や日本の侵略との戦いを口実とした蔣介石の独裁の強化に反対し、そのような専制体制はドイツやイタリアのファシズムと同じであり、遠回りでも民衆の政治参加を実現することが強固な国家統合につながると主張した。
 胡適のこの主張は取り入れられなかったが、それでも彼は中華民国の民主派として活動し、1938年には駐米大使となり、アメリカの対日政策に影響を与えた。戦後は一時中国に帰ったが、1949年にアメリカに亡命、1958年以降は台湾で中央研究院院長を務めた。62年に死去した。

出題 2020 関西学院(経済・国際ほか)

問 次の文中の空欄に最も適当な語を答えなさい。(改題)
 1891年に生まれた胡適は、台湾や安徽省などですごしたのちアメリカに留学、同地で( 1 )の代表的思想家として知られているデューイの指導を受け、研鑽を深めた。帰国後、20代の若さで北京大学教授に就任した胡適は、研究・教育に従事しつつ『( 2 )』にも健筆をふるい、同誌に『狂人日記』を発表した( 3 )らとともにその名を大いに知られるようになり、かれらの交互による文学表現は( 4 )といわれた。しかし(2)を創刊し、後にマルクス主義に傾倒して中国共産党を結成するに至る( 5 )とは次第に離れていった。
 高い知名度ゆえに胡適の行動はたびたび注目を集め、たとえば辛亥革命により退位した( 6 )との会見は大いに物議を醸した。また現実の政治にも深い関心をしめした胡適は、抗日戦争時期に特に外交面で( 7 )を支えたが、その独裁的な政権運営をしばしば批判したため、疎まれることもあった。とはいえ、胡適が最終的な選択したのは( 7 )統治下の台湾での生活であり、中央研究所院長として学術の発展に貢献、在職中の1962年に台北でその生涯を閉じている。

答え

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