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蔣介石

中国国民党の孫文の後継指導者。1926年に北伐を開始、翌年の上海クーデタで共産党を排除。北伐完了後、国共内戦に入る。1931年、満州事変が起きると共産党掃討を優先。1936年の西安事件を受けて内戦を停止、1937年、日中戦争が始まると国共合作に転じ、抗日戦を指導した。南京を占領され、重慶に逃れたが、米英の支援を受け、連合国の一員として戦った。しかし、日本との戦争が終わって再開された国共内戦に敗れて1949年に国民政府を率いて台湾に撤退し、総統として統治した。

蔣介石

蔣介石

 しょうかいせき。1887~1975。蒋は略字で、正字は蔣。また「介石」は字(あざな)で名は「中正」。号を「中山」と称した。(日本の教科書では現在も「蔣介石」としており、厳密には「蒋」でないことに注意。)

日本とソ連に学んだ軍人

 中華民国の歴史で孫文とともに重要な存在である蔣介石は、浙江省の出身(毛沢東より6歳上)で、1907年に日本に留学し、陸軍士官学校の予備校として清朝が東京に設立した振武学堂を卒業、一年間にわたり新潟県高田の日本陸軍野砲兵連隊で士官候補生として入隊した。日本で孫文が結成した中国同盟会に加わり、辛亥革命が起こると直ちに帰国して軍事面で活躍した。一方で上海で株の取引に関わったり、秘密結社である青幇(チンバン)のリーダーの杜月笙(とげっしょう)らと交遊し、清濁併せ呑むタイプだった。その後、1919年に孫文が結成した中国国民党に加わり、広東軍政府の軍事部門を担当する軍人として地方軍閥との戦いで頭角を現した。1920年代に孫文がソ連に急速に接近すると蔣介石もそれに従い、1923年には国民党の訪ソ団に加わってソ連赤軍を視察した。

広州国民政府、国民革命軍総司令となる

 1924年1月、第1次国共合作が成立し、共産党員を加えた中国国民党は国民革命の核となり、軍事力が課題になってくると、すでに広東軍政府で広東系軍閥との戦いで頭角を現していた蔣介石の存在が重視されるようになり、1924年6月に開設された黄埔軍官学校の校長に就任した(政治部副主任は共産党員の周恩来だった)。孫文は1925年3月12日に「革命いまだならず」という遺書を残して死去、後継者たちが主導権を争うようになり、直後に起こった五・三〇運動でナショナリズムが高揚したことを受けて、1925年7月に広東軍政府に代わって広州国民政府が成立すると、主席には汪兆銘が就任したが、蔣介石は国民革命軍の総司令官として軍事面の実権を握ることとなった。黄埔軍官学校出身者は蔣介石とも個人的なつながりを強め、蔣介石の政治権力を支える存在となっていく。このように軍事力を背景に蔣介石は国民政府の中で、右派の中心となっていった。<野村浩一『蔣介石と毛沢東』現代アジアの肖像 1997 岩波書店 p.48-/菊池秀明『中国の歴史10』ラストエンペラーと近代中国 講談社 2005 p.245->

北伐と上海クーデタ

 孫文死後、広州国民政府はその遺志を継いで北京を支配する軍閥政府の排除をめざし、1926年7月、「北伐」を開始、蔣介石はその総司令官として指揮を執った。たちまち武漢・南京・南昌などを占拠していったが、同時に共産党系の指導する労働者のストライキや農民の反地主闘争もそれに伴って激しくなり、武漢や南京では北伐軍と民衆がイギリスなど外国の租界に侵入して衝突するなどが続いたため、資本家層やイギリス・アメリカ・日本などの帝国主義諸国は強い懸念を持つようになった。そのため北伐の途上で国民党右派と共産党系の対立が次第に明確になっていった。
上海クーデタ 特に北伐軍が迫った上海では情勢が緊迫し、北伐に同調した労働者のストライキが軍閥勢力を追い出すとともに自治政府を樹立、租界の外国守備隊ともにらみ合うという情勢となった。その上海に入った蔣介石は1927年4月12日、突如、共産党員・労働組合指導者を襲撃して殺害するという上海クーデタ(四・一二事件)を断行した。こうして共産党勢力を完全に排除し、1927年4月18日には南京国民政府を樹立した。これに対し、国共合作の維持を続ける武漢政府は反発を強めたが、次第に武漢政府内でも反共産党派が主導権を握るようになり、7月15日に汪兆銘が共産党排除を表明、第一次国共合作はここに崩壊した。これは、国民政府の大きな転換を意味していた。

参考 蔣介石の日本訪問

 第一次国共合作は破綻したが、国民党内の南京政府と武漢政府の対立も尾を引いていた。南京の蔣介石と武漢の汪兆銘はそれぞれ引退するというポーズを取って妥協を図った。このとき下野した蔣介石は1927年9月末、私人の資格で日本を訪問、11月5日に田中義一首相と非公式に会談した。この時蔣介石は日本に対し北伐への軍事支援を要請したが、田中首相は満州では張作霖を支援しているので、蔣介石に対しては北伐を急がず、長江以南にとどまるよう説得したという。結局この会談は合意を得られず終わったが、この時の蔣介石の来日のもう一つの目的であった、来日中の宋美齢の母親に会い、結婚の許可を得ることには成功した。宋美齢は上海の民族資本家の浙江財閥の娘で、姉の宋慶齢は孫文夫人、兄の宋子文は南京政府の財務部長であった。宋美齢の母親はこの時、兵庫県の有馬温泉で湯治をしており、蔣介石はわざわざそこを訪れ、結婚の許しを得、帰国後の12月、二人は結婚した。この結婚で蔣介石は孫文と義兄弟になり、なおかつ浙江財閥という後ろ盾を得たのだった。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.43-45>

北伐の完了

 1928年、中断していた北伐を再開した蔣介石の国民政府軍は、北京に迫った。それに対して在留日本人保護を名目に日本軍は第二次山東出兵を決定、1928年5月3日には中国軍と衝突して済南事件が起こった。しかし、蔣介石は日本軍との全面対決を避けて迂回し、1928年6月9日に北京に入り、北伐を完了し、国民政府の中国統一を達成した。
張学良の易幟 このとき北京を追われた奉天派軍閥の奉天派張作霖は、奉天郊外で関東軍による張作霖爆殺事件によって殺害された。しかし、その息子張学良が蔣介石軍への協力を表明(易幟)したので、蔣介石による軍閥掌握は完了した。
国民政府の国際的承認 国民政府は改めて南京を首都と定め、北京を北平とし、国旗を五色旗から青天白日旗に変更した。蔣介石の国民政府が軍閥と共産党をともに排除して中国を統一したことで、国民政府は中華民国唯一の政府として国際的にも承認され、アメリカは1928年7月25日にまず関税自主権の回復に応じ、西欧列強もそれに続いた。日本は済南事件の事後処理に手間取り、国民政府の承認は遅れ、1929年6月となり、関税自主権の回復承認は1930年5月にずれこんだ。

独裁権力を樹立

 北伐を完了し、中国統一を成し遂げた南京国民政府は、蔣介石の主導権が強まった。しかしまだ財政基盤は十分でなく、蔣介石政権は増大した軍を維持するすることが困難であった。そのため軍縮に踏み切り、北伐で蔣介石に協力した旧軍閥にそれぞれ解散を命じた。それに対する旧軍閥の抵抗がしばらく続いた。まず1929年3月、武漢を拠点とした新広西派(李宗仁ら)を破り、5月には西北派(馮玉祥)を倒し、1930年4月から最後に残る閻錫山との「中原大戦」を戦った。この戦争は熾烈を極め、さまざまな勢力が離合集散しながら7ヶ月にわたって100万の軍隊が動員され、約30万の死傷者を出した。最後は奉天派の張学良が蔣介石側についたことで蔣介石の勝利が決定した。この間、蔣介石は国民党内部でも胡漢民や汪兆銘など孫文以来の周力者を抑えて主導権を握った。

国共内戦と日本軍の侵攻

 以後「中華民国」南京国民政府の中心にあって独裁的な権力を振るい、アメリカ・イギリスの支援と浙江財閥の援助によって中国を支配した蔣介石であったが、1930年代に中国共産党は活動拠点を農村に据えて各地で農地解放を進めて支持を拡げ、急速に台頭した。蔣介石は中原大戦に勝利してからは、この共産党をを最大の敵ととらえ、国共内戦が本格化する。その戦いは共産党の根拠地を包囲して掃討する意味で囲剿(いそう)といわれた。このような内輪もめが続く中国を見て、乗ずる隙があると考えたのが日本の関東軍であった。1931年9月満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されると、蔣介石はそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、まもなく日本軍と塘沽停戦協定を締結して休戦した。一方で共産党への攻勢を強めて、1934年には瑞金の共産党政府を西遷(長征)させ、延安に追いやった。翌1935年11月には蔣介石は支持基盤である浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一を行い、中国の経済的統一を図った。

西安事件と国共合作・抗日戦

 1936年12月、東北軍の張学良に軟禁され、日本軍への交戦と、共産党軍との停戦を要請されるという西安事件が起きると、蔣介石はその要請を入れて解放された。これを機に再び共産党との提携を進めるという激変が生じた。日本の関東軍は大陸侵略を本格化し、1937年7月日中戦争が始まると1937年8月、ソ連のスターリンとの間で中ソ不可侵条約を締結、さらに1937年9月には毛沢東の指導する共産党との第2次国共合作に合意、抗日戦争を指導した。日本軍は上海から南京に迫り、1937年12月南京虐殺事件が起きたが、すでに蔣介石の国民政府は重慶に移っていた。

重慶での抵抗

 蔣介石は重慶で援蔣ルートによるアメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けて抵抗を続けた。国共合作によって抗日民族統一戦線が形成され、国民政府軍と連携をとるようになった中国共産党軍(八路軍)も華北を中心に日本軍に対するゲリラ戦を展開した。
 1939年9月1日第二次世界大戦が勃発、ドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にフランスを降伏させた。日本軍は1940年5月から激しい重慶爆撃を開始したが、重慶は多くの犠牲を出しながら、降伏しなかった。
 このような日本は、援蔣ルートの遮断と石油などの資源の確保を目指し、東南アジアに勢力圏を延ばす南進に基本政策を転換したが、それがアメリカ・イギリスとの決定的な利害の対立をもたらした。1941年4月から日米交渉が続けられたが、日本政府は戦争による解決を主張する軍の主導により開戦を決意、1941年12月8日太平洋戦争に突入し、これによってアメリカ合衆国が参戦してヨーロッパとアジア・太平洋に戦渦が広がる第二次世界大戦となった。

連合国の一員として

 重慶の中華民国政府は、1942年1月1日連合国共同宣言に署名して連合国の一員となった。アメリカ・イギリスはそれに応じて1942年10月に不平等条約の撤廃(治外法権、租界の廃止)を宣言、中国の課題であった条約改正を達成した。
カイロ会談 1943年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合い、カイロ宣言にも署名した。この蔣介石の国際政治へのデビューとなったカイロ会談で、満州、台湾、澎湖諸島の日本からの返還をアメリカ、イギリス(後にポツダム宣言でソ連が加わる)に認めさせたことは中国にとって大きな意義があった。
英米ソのヤルタ密約 ところが、1945年2月に連合国首脳(チャーチル、F=ローズヴェルト、スターリン)が戦後体制について協議したヤルタ会談には蔣介石は招かれなかった。しかし、会議で成立したヤルタ協定の秘密協定において、ソ連の参戦への代償として、外モンゴルの現状維持(モンゴル人民共和国の承認)のほか、旅順・大連中東鉄道南満州鉄道などのソ連権益を承認するものであった。その秘密条項を知った蔣介石は激怒したと伝えられるが、ソ連(スターリン)によって中国共産党ではなく国民党政権を中国の正当な政権と認められたことになるので、明確になり始めている共産党との全面対決にとっては有利になると判断、1945年8月14日にヤルタ密約と同一内容の中ソ友好同盟条約締結に合意した。
日中戦争の終結 すでに日本は敗北が濃厚となっており、1945年8月にはポツダム宣言を受諾、中華民国もそれに加わっていたので、中国は第二次世界大戦の勝者である連合国の一員として戦後の国際体制に地位を占めることとなった。発足した国際連合では安全保障理事会常任理事国の地位が与えられた。

共産党に敗れ台湾へ

 しかし、国内では蔣介石の立場は大きく揺らいでいた。一方、日中戦争中に支持基盤を固めた中国共産党は毛沢東が権力を集中させていた。1945年8月、日本の敗北が確定した後、重慶で戦後の中国の統治についての話し合いが始まり、1945年10月10日に「双十協定」によって内戦回避では一致し、協議の場として政治協商会議が開催されたが、協議は決裂した。共産党が中華民国の政治体制は認めたものの、軍の一体化には合意しなかったためであった。国民政府は南京に戻ったが、華北・東北は共産党が押さえており、1946年6月国共内戦が始まった。蔣介石はアメリカの支援を受けて当初は優位な戦いを進め、また国民の支持を得るため独裁色を薄めた中華民国憲法を制定、1912年3月11日に公布した。憲法に基づいて、1948年には正式に中華民国総統に選出されたが、国共内戦の過程で国民党は中国国民の支持を得られず、翌年共産党軍に敗れて、蔣介石は敗北の責任をとって1949年1月21日に引退、副総統李宗仁が職務を代行することとなった。1949年10月1日、北京で共産党の毛沢東を首席とする中華人民共和国が成立、国民政府はその1949年12月台湾に移ることを決定した。

総統としての台湾統治

 台湾に入ると、蔣介石は1950年3月1日、「中華民国」総統に返り咲いた。アメリカの支援をもとに大陸の中華人民共和国との軍事対立が続く中、蔣介石一族は絶大な権力をにぎって独裁政治を続け、共産党軍の侵攻に備えてすでに1949年5月20日戒厳令を布いており、ストロングマンとして人権を抑圧する体制を作り上げた。そのような体制は、権威主義とも言われ、経済政策面からは開発独裁とも言われる。そのもとで台湾の人々は政党活動の自由、言論・集会の自由、労働運動などの自由を奪われた。
 しかし、1971年にはアメリカのニクソン大統領による米中関係の改善のあおりを受けて、国際連合の「中国」の国連代表権を失うという事態となった。台湾をめぐる情勢が厳しくなるなか、蔣介石は1975年4月5日に死去し、権力は息子の蔣経国が継承した。

Episode 蔣介石の夫人、宋美齢の活躍

 1927年、蔣介石は上海で宋美齢と結婚した。宋美齢は、孫文の未亡人宋慶齢の妹で、著名な浙江財閥宋子文を兄としていた。蔣介石は宋美齢の母親に結婚の許諾を得るため、当時母が住んでいた神戸までやってきた。これで蔣介石は孫文の義弟となり、上海財閥とも閨閥で結ばれることとなり、その権力の基盤となった。なお宋美齢は若い頃アメリカで育ち、英語が堪能なクリスチャンであった(その影響で蔣介石もクリスチャンになった)。西安事件で蔣介石が監禁されたときは自ら西安に飛び、共産党と交渉したり、日中戦争の時期はアメリカで盛んに中国支援を訴え、南京虐殺などの事実を宣伝した。国共内戦に敗れると、蔣介石と共に台湾に移り、「総統夫人」として重きをなした。晩年は渡米し、2003年10月、ニューヨークにおいて103歳で死んだ。
 宋美齢の姉の宋慶齢は、夫の孫文の国共合作の精神を守り、共産党との友好な関係を続け、中華人民共和国が成立すると副主席に迎えられた。文化大革命期には財閥の出身で蔣介石夫人とも姉妹であることから批判の対象にされかかったが、毛沢東の信頼も篤かったため失脚を免れ、文革後は全人代常務委員長代行を務めた。1981年に上海で死去、88歳であった。宋家の三姉妹のうちの二人、宋慶齢と宋美齢はまったく別な政治的人生を送ったのだった。

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