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蔣介石

中国国民党の孫文の後継指導者。共産党との内戦に踏み切り、敗れて台湾に撤退。

しょうかいせき。蒋は略字で、正字は蔣。1887~1975。

日本とソ連に学んだ軍人

 蔣介石は浙江省の出身(毛沢東より6歳上)で、1907年に日本に留学し、陸軍士官学校の予備校として清朝が東京に設立した振武学堂を卒業、一年間にわたり新潟県高田の日本陸軍野砲兵連隊で士官候補生として入隊した。日本で孫文が結成した中国同盟会に加わり、辛亥革命が起こると直ちに帰国して軍事面で活躍した。一方で上海で株の取引に関わったり、秘密結社である青幇(チンバン)のリーダーの杜月笙(とげっしょう)らと交遊し、清濁併せ呑むタイプだった。その後、中国国民党の軍人として孫文に従い、1923年には国民党の訪ソ団に加わってソ連赤軍を視察した。1924年第1次国共合作では革命軍の養成にあたる黄埔軍官学校の校長を務めた(政治部副主任は周恩来だった)。黄埔軍官学校出身の学生を中心に国民革命軍を組織してその総司令となり、次第に発言権を強め、右派の中心となる。<野村浩一『蔣介石と毛沢東』現代アジアの肖像 1997 岩波書店 p.48-/菊池秀明『中国の歴史10』ラストエンペラーと近代中国 講談社 2005 p.245->

北伐を成功させる

 孫文死後、その遺志を継いで1926年7月、北京を支配する軍閥政府の排除をめざし、「北伐」を開始、たちまち武漢・南京・上海などを占拠した。北伐の途上、1927年上海クーデターで共産党を排除し、反共に転じて南京国民政府を樹立。28年に北京を占領して北伐を完了、中国の一応の統一を達成した。このとき北京を追われた奉天派軍閥の奉天派張作霖は、奉天郊外で関東軍による張作霖爆殺事件によって殺害され、その息子張学良が蒋介石軍への協力を表明したので、蒋介石による軍閥掌握は完了した。

中華民国を率い、共産党と内戦

 以後「中華民国」の中心にあって独裁的な権力を振るい、アメリカ・イギリスの支援と浙江財閥の援助によって中国共産党との戦いを進める。1931年、満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されてもそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、日本軍と塘沽停戦協定を締結した。一方で共産党への攻勢を強めて、1934年には瑞金の共産党政府を西遷(長征)させ、延安に追いやった。翌1935年には蒋介石は支持基盤である浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一を行い、中国の経済定統一を図った。

西安事件と国共合作・抗日戦

 1936年、西安事件で東北軍の張学良に軟禁され、その要請を入れて共産党との内戦を停止した。1937年に日中戦争が始まると共産党との第2次国共合作に合意、抗日戦争を指導した。日本軍の攻勢を避け、重慶に政府を移し、援蔣ルートによるアメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けて抵抗を続けた。1941年に第二次世界大戦に拡大すると連合国の一員となり、1943年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合った。

共産党に敗れ台湾へ

 大戦後は中国共産党と決別して、国共内戦に突入、アメリカの支援を受けて1948年には正式に中華民国総統に選出された。しかし、翌年に共産党軍に敗れて、国民政府ともども台湾に移った。その後も台湾で「中華民国」総統として君臨、1975年に死去し、権力は息子の蒋経国が継承した。

Episode 蔣介石の夫人、宋美齢の活躍

 1927年、蔣介石は上海で宋美齢と結婚した。宋美齢は、孫文の未亡人宋慶齢の妹で、著名な浙江財閥宋子文を兄としていた。蔣介石は宋美齢の母親に結婚の許諾を得るため、当時母が住んでいた神戸までやってきた。これで蔣介石は孫文の義弟となり、上海財閥とも閨閥で結ばれることとなり、その権力の基盤となった。なお宋美齢は若い頃アメリカで育ち、英語が堪能なクリスチャンであった(その影響で蔣介石もクリスチャンになった)。西安事件で蔣介石が監禁されたときは自ら西安に飛び、共産党と交渉したり、日中戦争の時期はアメリカで盛んに中国支援を訴えた。2003年10月、ニューヨークにおいて103歳で死んだ。
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ノートの参照
第15章3節 ウ.国民党と共産党
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗
書籍案内

野村浩一
『蔣介石と毛沢東』
現代アジアの肖像
1997 岩波書店