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国民政府(中国)

辛亥革命後の中華民国の政府を言うが、特に北京の軍閥政府に対抗した国民党の樹立した政府をさす。幾度かの分裂対立が続いた。

 「国民政府」とは、「中華民国国民政府」のことで、中華民国の政府を意味するが、特に軍閥政府に対して反発した勢力が称した政権名である。それも時期によって、いくつかの政府があるためわかりにくくなっている。「国民政府」と称した政権を段階的にまとめると次のようになる。

前史(1911~25年)

 辛亥革命によって1912年正月に孫文を臨時大総統とし南京を首都に中華民国が成立したが、北京(当時は北平といわれた)には袁世凱がなおも実権をにぎったおり、中国は分裂状態となった。1913年には孫文らを弾圧した袁世凱が北京で正式な中華民国初代大総統に就任した。その後、1916年の袁世凱の死後も北京には軍閥政権(北京政府)が交代した。それに対して孫文(中華革命党)は、1917年に広東軍政府を組織して軍事的に抵抗した。そのような中で起こった1919年の五・四運動の後、孫文は新たに中国国民党を結成し、新たな中華民国の政治勢力を作り、「国民革命」を実現しようとした。一方、1921年にはマルクス主義政党の中国共産党が成立し、この両者はコミンテルンの働きかけもあって北京軍閥政府と帝国主義の侵略に対抗しようとして1924年に第1次国共合作を実現させた。ここから始まる軍閥政府を倒し中国統一をめざす運動を、国民政府は国民革命と意義づけている。

1.広東国民政府(1925~27年)

 孫文は1925年3月に死去したが、5月には上海で五・三○運動が始まって反帝国主義、民族主義の運動が高まったのを受けて、中国国民党は広東一帯の地方軍閥軍を討伐して、7月に広州で「広東国民政府」(広東政府、広州国民政府とも言う)を樹立した。主席は汪兆銘(汪精衛)。これが最初の「国民政府」を名乗る政府である。これで北京の軍閥政府と広東の国民政府の二つの政権が併存する形となった。1926年、広東国民政府は、蔣介石を司令官として北京軍閥政府を打倒するための北伐を開始した。

2.武漢国民政府(1927年2月~7月)

 翌1927年2月、広東国民政府は本拠地を北上させて武漢に移し、それからは「武漢国民政府」と言われるようになる。その内部には孫文の意志どおり国共合作を維持しようとする左派の汪兆銘と、共産党の排除をねらう蔣介石ら右派の対立があった。蔣介石の背後には上海の浙江財閥といわれる民族資本があった。彼らは五・三〇運動のような労働者の運動が民族資本に向けられることを警戒し、国民政府の中の共産党勢力を排除することを蔣介石に期待した。

3.南京国民政府(1927~37年)

 1927年4月、蔣介石は上海クーデター(四・一二事件)で共産党弾圧を開始、共産党を排除して「南京国民政府」を樹立した。武漢政府でも右派が台頭して、汪兆銘は失脚、7月に南京国民政府に統合された。1928年、南京国民政府(国民党の蔣介石政権)は北京の軍閥政府を倒し、北伐を完了させ、さらに同年末には満州軍閥の張学良が「易幟」を行って国民政府への帰属を表明したため、国民政府の統治領域は満州に及んだ。これによって国民政府による中国統一が達成されたが、1930年代は南京国民政府と共産党勢力の国共内戦となるとともに、日本の大陸侵攻が強まってくる。

4.国共内戦から第2次国共合作へ

 そのような中で1931年の満州事変が起こったが、南京国民政府は共産党の殲滅を優先させ日本軍に対する抵抗を二の次とする姿勢をとった。一方共産党は1931年に瑞金中華ソヴィエト共和国を樹立して独自政権を発足させ、国民政府軍の攻勢を受けて瑞金を放棄して1934年、長征を開始し、その途中の遵義会議で毛沢東の指導権を確立させ、1935年には延安に入り、抗日戦の根拠とし、中国国民党に対しては抗日武装戦線の結成を呼びかけた。共産党を延安に追いやった蒋介石は、中国の経済的統一に乗り出し、1935年に通貨統一を断行して、銀の流通を禁止して法定紙幣(法幣)のみを流通させる管理通貨制度を導入した。この政策は、紙幣発行権を持つ政府系銀行は浙江財閥である蔣介石の一族に握られており、蒋介石政権の強大化を目指すものであった。こうして蒋介石・国民政府は共産党との対立姿勢を強めていたが、満州では日本軍の攻勢が激しくなっており、国共合作の復活を望む声が強くなっていた。
 1936年、満州軍閥の張学良が、共産党軍との戦いを督励にきた蒋介石を監禁して、国共合作を迫るという西安事件が起こり、それを機に次第に国共合作の気運が高まった。そのような中、翌1937年に日中戦争が始まると、第2次国共合作が成立した。第2次国共合作は第1次と違い共産党員が国民党に加盟するというのではなく、二つの党はそれぞれ独自の党として活動しながら、日本の侵略に対しては協力して闘うという形態をとった。

5.重慶国民政府(1937~46年8月)

 1937年、日中戦争が勃発、南京国民政府は首都南京を日本軍に攻略されたたため、武漢に移り、さらに重慶に移動した(重慶国民政府)。日本軍は「国民政府を相手とせず」と表明し、中国国民党の反蒋介石勢力である汪兆銘を担いで別に「南京国民政府」(中国では偽政府とされている)を作らせ交渉相手とした。しかし国際的には承認されず、重慶国民政府は連合国の一員として重視され、蒋介石はカイロ会談など煉獄国首脳会談に参加し、ポツダム宣言にも署名した。この間、1943年までに不平等条約の撤廃(中国)が行われた。蒋介石の国民政府は国際連合の設立にも加わり、安全保障理事会の常任理事国になった。日本の敗北によって汪兆銘政府は消滅した。

6.中華民国政府と国共内戦の再開(1946~49年)

 1945年8月に日本軍が敗北、46年5月、国民政府は南京に帰り「南京国民政府」を唯一の政府とする中華民国を表明し、翌47年には中華民国憲法を制定、翌年には蔣介石を正式に中華民国総統に選出した(これ以後は「中華民国政府」と称する)。しかし、延安を拠点に確固たる勢力を民衆の中に築いていた中国共産党は、それに従わなかった。1945年8月末から中国国民党蔣介石は重慶での中国共産党毛沢東との会談に応じ、10月に合に達し、双十協定を締結、「政治協商会議」が開催されたが、イデオロギーの対立から決裂し、再び激しい国共内戦に突入した。

7.中華民国政府の台湾統治(1949年~)

 国共内戦は共産党の勝利となり、1949年10月、「中華人民共和国」が樹立された。1949年12月に「中華民国政府」は台湾に撤退し、1950年から現在まで、台湾を統治している。蔣介石国民党政権の「中華民国」は国際連合の議席も継承した。この国民党による中華民国の台湾統治を行う政府を「国民政府」と言う場合もある。国民党政権は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、輸出産業を発展させていった。しかし、1971年にはアメリカが中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めない立場に変わったため、台湾の「中華民国」は国連の議席を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蔣介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めた。