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陳独秀

中国の文学革命の指導者で、1915年に『新青年』を刊行した。マルクス主義に傾倒し、1921年に中国共産党初代委員長となったが、29年には党内対立から除名された。

陳独秀

陳独秀 1879-1942

 中国の安徽省の出身で日本留学の後、1915年に上海で雑誌『新青年』を刊行し、文学革命の口火を切った。その後、マルクス主義に傾倒し、1921年に中国共産党を創設し、その初代委員長となった。しかし1929年にはトロツキストとして党を除名されるという変転に富んだ生涯を送った。

『新青年』の創刊と文学革命

 彼は1915年の『新青年』の創刊号(『青年雑誌』)に論文「敬んで青年に告ぐ」を寄稿し、来るべき新中国の精神として「デモクラシーとサイエンス」をかかげ、青年の自立を促し、儒教こそは2000年来の専制政治を支えた決別すべき思想であるとしてきびしく批判した。1917年、北京大学の学長蔡元培は、陳独秀を説得してその文学部長として招き、以後は北京大学が文学革命の中心地となった。

資料 「青年に告ぐ」

(引用)私が思うには、「年若くして老成する」は、中国人が人を誉める言葉である。「年を取っても衰えるな Keep young while growing old.」は、英米人がお互いに励まし合う言葉である。これも東西民族の発想が異なり、現象が違うことの一端であろうか。青年は初春のように、朝日のように、花々が萌え出るように、研ぎたての刃の鋭さのように、人生の最も貴重な時期である。社会における青年は、人体における新鮮で活発な細胞のようでもある。新陳代謝は、陳腐老巧なものを絶え間なく自然淘汰の道へ向かわせ、新鮮活発なものへ空間的な位置と時間的な生命を与える。人体は新陳代謝の道に従えば健康になり、陳腐老朽なものが細胞人体に充満すれば、人体は死ぬ。社会は新陳代謝の道に従えば隆盛になり、陳腐老朽した人びとが社会に充満すれば社会は滅ぶ。
 これに従って述べると、我が国の社会は隆盛しているだろうか。それとも亡びようとしているのだろうか。私が言うには忍びないものがる。……私の見るところでは、年齢は青年でも身体は老人である者が五割であり、年齢や身体は青年でも脳神経は老人である者は九割である。髪は黒く顔はつややかで、腰もまっすぐで胸も広い、まぎれもない青年でも、その頭の中の考えや抱負を尋ねてみると、陳腐であり老朽な者と同じ穴の狢(むじな)にほかならない。……この現象に従えば、人身は必ず死に、社会は必ず亡ぶ。この病を救いたければ、嘆息は救いにはならず、敏感に自覚し勇敢に奮闘する青年が人間固有の知能を発揮し、人間の種々の思想の中で、どれが新鮮活発で現代の生存競争に適しているか、あるいはどれが陳腐老朽で脳裏に留めておくべきでないかを選択し、鋭利な刃物で鉄を断ち、快刀で乱麻を断つように、決して妥協したり躊躇したりせず、自らを救い他人を救えば、社会は清く穏やかな日を迎えることができるかもしれない。青年よ、この任を自ら担うだろうか。その是非を明らかにし、選択の参考に供することとしよう。(後略)<『世界史史料10』歴史学研究会編 岩波書店 p.35>
 ここで陳独秀が陳腐老朽としたのは儒教思想であり、新鮮活発としたのが「デモクラシーとサイエンス」であった。

中国共産党の創設と失脚

 1919年の五・四運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海でコミンテルンと連絡を取りながら準備を進め、1921年7月に中国共産党を創設し、その初代委員長(総書記)となった。その後、初期の中国共産党の指導者として、第1次国共合作を進めたが、1927年には蔣介石の上海クーデターが発生、その後の共産党の敗北の責任をとらされる形となり、「右翼日和見主義者」として幹部の地位を追われた。

トロツキーに同調

 その後中国共産党は、都市での武力蜂起方針(スターリンの指示で李立三が進めた)をとると、陳独秀はそれに反対し、トロツキーに共鳴してソヴィエトの建設を主張した。しかし、ソ連でスターリン派がトロツキー派を排除したのに合わせて、陳独秀もトロツキストとして1929年に除名された。1931年5月には陳独秀はトロツキスト組織を統一し、上海で中国共産主義者同盟を結成し活動を継続したが、1932年10月、国民党による一斉検挙によって逮捕され、組織は壊滅した。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.93 p.117 p.121 p.144 p.216 p.208>
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