印刷 | 通常画面に戻る |

陳独秀

中国の文学革命の指導者で、中国共産党初代委員長。

 20世紀の初頭、中国の文学革命の指導者として活躍し、1921年に中国共産党を創設し、その初代委員長となった。しかし1929年にはトロツキストとして党を除名されるという変転に富んだ生涯を送った。

『新青年』の創刊と文学革命

 安徽省の出身で日本留学の後、1915年に上海で雑誌『新青年』を刊行し、文学革命の口火を切った。彼はその創刊号に論文「敬んで青年に告ぐ」を寄稿し、来るべき新中国の精神として「デモクラシーとサイエンス」をかかげ、青年の自立を促し、儒教こそは2000年来の専制政治を支えた決別すべき思想であるとしてきびしく批判した。1917年、北京大学の学長蔡元培は、陳独秀を説得してその文学部長として招き、以後は北京大学が文学革命の中心地となった。

中国共産党の創設と失脚

 1919年の五・四運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海でコミンテルンと連絡を取りながら準備を進め、1921年に中国共産党を創設し、その初代委員長(総書記)となった。その後、初期の中国共産党の指導者として、第1次国共合作を進めたが、1927年には蔣介石の上海クーデターが発生、その後の共産党の敗北の責任をとらされる形となり、「右翼日和見主義者」として幹部の地位を追われた。

トロツキーに同調

 その後中国共産党は、都市での武力蜂起方針(スターリンの指示で李立三が進めた)をとると、陳独秀はそれに反対し、トロツキーに共鳴してソヴィエトの建設を主張した。しかし、ソ連でスターリン派がトロツキー派を排除したのに合わせて、陳独秀もトロツキストとして1929年に除名された。1931年5月には陳独秀はトロツキスト組織を統一し、上海で中国共産主義者同盟を結成し活動を継続したが、1932年10月、国民党による一斉検挙によって逮捕され、組織は壊滅した。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.93 p.117 p.121 p.144 p.216 p.208>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章3節 ア.第一次世界大戦と東アジア