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ヴェルサイユ条約調印拒否

ヴェルサイユ条約で日本の山東省権益が返還されなかったため、中国政府は調印を拒否した。

 中華民国第一次世界大戦勃発後に参戦していたので、1919年1月に始まったパリ講和会議に代表顧維均らを参加させた。なお、このころ中華民国(中国)の中央政府は北京政府であるが、華南は広東軍政府が実権を握っており、いわば南北内戦状態であった。しかしパリ講和会議参加にあたっては内戦を停止し、双方の政府から代表を参加させた。代表は北京政府の外交総長陸徴祥で、同じく北京政府の駐米公使顧維均、広東軍政府の駐米代表王正廷ら、若い親米派のエリートが加わった。顧維均はコロンビア大学に留学し、北京政府の駐米公使となり、ウィルソンを信奉する「ヤング・チャイナ」と言われるエリートの一人だった。

二十一カ条要求と山東問題

 中国は、パリ講和会議が、アメリカ大統領のウィルソンが14カ条で提唱した民族自決の原則に沿って、中国人の主権回復に理解を示すことを期待して、日本が二十一カ条要求でドイツから継承した山東省権益の返還を強く主張した。この問題は講和会議では山東問題と言われ、議題の一つとなったが、イギリス・フランスが大戦中に日本権益を認める密約があったため、中国の主張は認められなかった。
 そのことが中国本土に伝えられると激しい反対運動が盛り上がった。それが同年5月の五・四運動である。本国の北京政府は代表団に調印を指令したが、顧維均らは本国の民衆の調印反対の声が強いことを聞いて、独自に調印の拒否を判断したという。こうして中国は同年6月のヴェルサイユ条約(ドイツと連合国の講和条約、その中で国際連盟の設立が含まれている。発効は20年1月。)の調印に加わらなかった。<菊地秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 2005 講談社 p.216-219>

中国の国際連盟加盟

 しかし、北京政府は1920年6月29日に正式に国際連盟に加盟したことに注意しておこう。国際的な孤立を避けるための判断であった。国際連盟はその年1月にすでに発足しているから発足時は加盟していないことになるが、国際連盟の第1回総会が開催されたのは同年11月15日で、その時は中国は参加している。従って中国は国際連盟規約では原加盟国に加えられている。代表はパリ講和会議に続き顧維均が務めた。

参考 国際連盟加盟の方法

 ヴェルサイユ条約の調印を拒否しながら、その第1条に規定されている国際連盟に加盟できたのはなぜだろうか。それは、いったん拒否したヴェルサイユ条約に後で調印したから、ではなかった。ヴェルサイユ条約は拒否しなければならないが、国際連盟には是非加盟したい、という矛盾を現地で交渉に当たった顧維均らはどのように解決したのだろうか。次のような説明がある。
(引用)全権代表団は、ヴェルサイユ条約の調印を拒否しても国際連盟に加盟できる道を模索していた。本国からは、五・四運動に直面した北京政府が、むしろ条約に調印するよう要請してきていた。パリの全権代表のもとにも五・四運動の情報は一定程度はいっていたし、パリの中国人留学生たも彼らに調印拒否を訴えていた。だが、全権代表団の政策決定過程で重要だったのは、五・四運動よりも、連盟加盟の方法を発見したことだった。すなわち、オーストリアとのサン=ジェルマン条約に調印すれば、その第一条に国際連盟への加盟条項があるので加盟できることに気づき、6月28日にヴェルサイユ条約調印を拒否したのだった。政府の訓令に反する決定は、民国前期における外交官の自立性を示す一例だといえる。7月10日、徐世昌(引用者注、時の中華民国大総統)は大総統令でこの調印拒否を追認した。<川島真『近代国家への模索1894-1925』シリーズ中国近現代史② 2010 岩波新書 p.186>
 つまり、ヴェルサイユ条約に署名しなくとも国際連盟に加盟できるという見通しがあったから署名を拒否したということであろう。それは国内で盛り上がった五・四運動をうけて現地外交官が署名を拒否した、という従来の説明と異なることになる。しかし、五・四運動の盛り上がりと関係なく、抜け道を発見したという理由だけで条約調印拒否に踏み切ったとは思えない。五・四運動という国内の反対運動の盛り上がりを踏まてヴェルサイユ条約調印を拒否しつつ、国際社会での地歩を確保するために国際連盟加盟も実現した、というしたたかな顧維均らの中国(北京の中華民国政府)外交の手腕を評価すべきであろう。なお、前のこの項で「北京政府はまもなくヴェルサイユ条約に調印、1920年6月29日に正式に国際連盟に加盟した」と書きましたが、明らかに誤りでしたので訂正します。<上記の誤りは代々木ゼミナール越田氏よりご指摘を受けました。感謝致します。>
 なお、中国がヴェルサイユ条約調印を拒否した理由である山東半島の日本権益は、その後も日本が維持したが、第一次世界大戦後の国際協調の世論が高まる中、ワシントン会議で締結された九カ国条約(1922年)で放棄した。

ドイツとの講和条約

 ヴェルサイユ条約に調印しなかったため、中国は別にドイツとの講和条約を締結する必要が生じた。そこで両国は交渉を進め、1921年5月20日に講和条約を締結した。ここでドイツは片務的な治外法権・関税自主権・最恵国待遇とともに、義和団事件の時の賠償金、そして租界をはじめとするドイツの中国における権益を撤廃した。これは中国が初めて列強と締結した平等な条約となった。また、中国は、協商国がオスマン帝国と締結したセーヴル条約については、その内容が不平等条約的要素があることを理由に調印していない。<川島『同上書 p.186-7>