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民族自決

それぞれの民族は自らの運命を自ら決するべきである、とする考え。第一次世界大戦期の民族主義の高まりの中で提唱され、レーニンの「平和についての布告」とウィルソンの「十四カ条」に盛り込まれた。

 帝国主義のもとで他国の領土や植民地に組み込まれ、自立の権利を奪われていた民族のなかに、第一次世界大戦前後から独立の気運が高まっていた。まず、ロシア革命でレーニンは「平和についての布告」を発表して、無賠償・無併合とともに民族自決を原則とした即時平和を提唱した。それに対抗する形でウィルソンは十四カ条の中に民族自決の原則を加えた。
 特にウィルソンの述べた民族自決の原則は、日本の植民地支配下にあった中国・朝鮮の民衆に大きな期待を与えた。しかし、パリ講和会議では旧オーストリア領の東ヨーロッパ諸国のセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後のユーゴスラヴィア王国)、チェコスロヴァキア共和国の独立が認められたが、オスマン帝国からの西アジアの民族独立は認められず英仏の委任統治とされた。アジア・アフリカの民族には適用外とされたため、特に日本の植民地支配にあった朝鮮二十一カ条要求に対する反発の強まっていた中国では強い不満が爆発し、1919年に朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動が起こった。
 またロシア革命によってフィンランドバルト三国ポーランドが独立を達したが、レーニンが進めようとしたコミンテルンにるロシア以外で社会主義革命はうまくいかず、ソヴィエト=ポーランド戦争のような民族主義との対立から戦争になる事態となった。その後、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が成立し、ロシアと連邦を構成した諸民族は建前としては平等であったが、実質的にはロシアの優位の中でそれ以外の民族は従属的な地位に置かれた。第二次世界大戦後に社会主義国となった東欧のハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなども、社会主義の連帯と、民族自決の要求との矛盾に永く悩まされることとなり、やがてバルト三国の独立要求などを契機として東欧社会主義圏の崩壊に至ることとなる。
 アジア、アフリカでの民族独立は、第二次世界大戦後に一斉に達成されていき、いわゆる第三世界を構成することとなる。