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ヴェルサイユ条約

1919年、パリ講和会議の結果締結された第一次世界大戦の対ドイツ講和条約。

 1919年6月28日パリ講和会議の結果、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された、第一次世界大戦の連合国とドイツの間の講和条約。ヴェルサイユ条約の精神は、フランスによるドイツに対する報復という面が強かく現れ、ウィルソンの国際協調の精神は第1編の国際連盟規約に生かされたにとどまった。またレーニンが「平和についての布告」で提唱した無賠償・無併合の理念もまったく無視された。1920年1月10日に発効。これ以降のこの条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制というが、敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたこの体制は、1936年にドイツのヒトラー政権がロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐することによって崩壊する。

ヴェルサイユ条約の内容

 その内容は多岐にわたるがまとめると次のようなことになる。
(1)国際連盟規約。
(2)領土の処分:
 a.ドイツはすべての海外植民地と権益を放棄する。
  ・山東半島のドイツ権益は日本に与えられる。
 b.領土の割譲
  ・アルザス・ロレーヌをフランスに返還する。
  ・ポーランドにバルト海に通じる地域(ポーランド回廊)を割譲する。
   ほかにベルギー、デンマークにそれぞれ隣接地域を割譲する。
 c.領土の国際管理など
  ・ザール地方は国際連盟の管理下におき15年後に住民投票で帰属を決定する。ただし炭鉱の採掘権はフランスが有する。
  ・ダンツィヒは自由都市とし国際連盟の管理下におく。港湾管理権はポーランドが有する。
  ・上シュレジェンは21年の住民投票によって帰属を決定する。
 (以上によってドイツは国土の7分の1、人口の10分の1を失い、東部プロイセンと分断された)
(3)軍備の制限徴兵制は廃止され、陸軍は10万、海軍は1万6500の兵員に制限され、航空機・潜水艦の所有は禁止された。
  また、ラインラントは非武装(ライン川西岸は連合国軍により15年間占領、右岸の50㎞は非武装)とされた。
(4)戦争責任はドイツにあるとされ、賠償金の支払い義務を課せられる。(1921年に1320億マルクに決定)

ヴェルサイユ条約の問題点

 ヴェルサイユ条約の調印、批准にあたって、次のような問題があった。
アメリカの批准拒否 アメリカ合衆国は、上院でモンロー主義孤立主義)によって共和党が国際連盟加盟に反対したため、1920年3月19日に上院で批准が否決された。そのためヴェルサイユ条約とは別にドイツとの間で1921年に講和条約を締結した。
中国の調印拒否 またパリ講和会議に参加した中国は、日本の山東省権益の継承が承認されたことに反対する五・四運動が盛り上がったため、調印を拒否した。本国の北京政府は調印を指令したが、代表としてパリ講和会議に参加していた顧維均が、本国民衆の調印反対の声を聞いて、独自に判断したという。ただし、中国は20年6月に条約を承認し、国際連盟にも加盟している。
日本の「人種平等案」否決 日本はアメリカで高まった移民排斥問題(移民法)をとりあげ、国際連盟規約に「人種平等原則」を入れるよう主張し、賛成も多かったがウィルソンの反対で採択されなかった。
ドイツの拒否反応 5月に条約草案がドイツ共和国に示されると、異常に負担の重い賠償問題や領土の喪失に対し、国内に強い拒否反応が現れた。そのためバウアー内閣は総辞職せざるをえなかった。結局、条約を受け入れたが、ドイツでは条約と呼ばず「強制的に書き取らされたもの」という意味のディクタートと呼ばれることとなった。その後もドイツではヴェルサイユ条約に対する怨念が継承され、ナチスの台頭の要因となる。

その他の講和条約

 ヴェルサイユ条約は、ドイツと連合国(28ヵ国)の講和条約であり、他の敗戦諸国はそれぞれ別個に講和条約を締結した。1919年9月、オーストリアに対してはサン=ジェルマン条約、同年11月、ブルガリアに対する ヌイイ条約、1920年6月、ハンガリーに対するトリアノン条約が締結された。これらの条約により、オーストリア=ハンガリー帝国が解体された。オスマン帝国に対しては1920年にセーヴル条約が締結されたが、その内容に不満なケマルパシャが指導する民族運動は、1923年に改訂してローザンヌ条約締結に成功する。
※なお、ヴェルサイユ条約と他の敗戦国との4条約を含めてヴェルサイユ条約と説明する場合もあり、5条約後の国際秩序をヴェルサイユ体制という場合もある。

Episode ヴェルサイユ条約の日付と締結場所

 ヴェルサイユ条約が締結された6月28日は、5年前にサライェヴォ事件が起こった日であった。また、調印式はパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたが、そこは1871年に普仏戦争でフランスが敗れたとき、ドイツ帝国のヴィルヘルム1世が戴冠式をあげた場所であった。ここでドイツが講和条約に調印しなければならなくなったことにフランスの大衆は普仏戦争の報復が出来たという感情を持った。
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ノートの参照
第15章2節 ア.ヴェルサイユ体制とワシントン体制