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ヴェルサイユ条約/ヴェルサイユ講和条約

1919年6月、パリ講和会議の結果として、連合国とドイツの間で締結された第一次世界大戦の講和条約。ドイツに対する報復的な厳しい内容となり、海外領土放棄・軍備制限・賠償金などが課せられた。同時にアメリカ大統領ウィルソンの提案が入れられ、民族自決の原則、国際連盟の創設なども盛り込まれた。これによって第一次世界大戦後の国際秩序としてヴェルサイユ体制が生まれたが、敗戦国ドイツの不満は残り、ソヴィエト=ロシアが参加していないなど、次の危機の出発点ともなった。1935年3月のナチス=ドイツの再軍備、36年3月のロカルノ条約破棄で崩壊した。

 ヴェルサイユ条約 Treaty of Versailles は、1919年6月28日パリ講和会議の結果として、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された、第一次世界大戦の連合国とドイツの間の講和条約。
 パリ講和会議はアメリカのウィルソン大統領の提唱した十四カ条に添って国際協調・民族自決などの原則が重視されたが、フランスによるドイツに対する報復という面が強く現れたため妥協が重ねられ、その精神は第1編の国際連盟規約に生かされ、東ヨーロッパ諸国が独立を実現したことにとどまった。またレーニンが「平和についての布告」で提唱した無償金・無併合の理念もまったく無視され、ヨーロッパの戦勝国の利害が優先されたため、民族自決の幻想が実現されたのは東ヨーロッパ諸国に留まり、アジアやアフリカの植民地にはおよばなかった。

ドイツの受諾

 敗戦国ドイツはこの時、ドイツ共和国となっていたが、パリ講和会議には参加できなかった。ドイツ代表はパリに滞在し講和条約案が確定した1919年5月6日の翌日、ヴェルサイユのトリアノン・パラスホテルで条約案全文440条を手交された。そこには戦争責任はあげてドイツにあるとされ、海外領土はすべて没収、アルザス・ロレーヌ、ポーランド回廊などは割譲、軍備の制限、そして賠償金(1320億金マルクという金額は翌年提示される)の義務など、騒擾以上に厳しいものであった。ウィルソンの十四ヵ条の「平和原則」を講和の条件として休戦に提案したドイツとしては、とうてい受け入れがたいものであった。その後1ヶ月以上にわたりドイツは連合国との折衝を行ったが、連合国側も1月以来の多くの困難を克服してまとめた講和案なので引きことはできず、結局ドイツはベルサイユ条約全文を無条件で受諾することを通告し、1919年6月28日のヴェルサイユ宮殿での調印式を迎えた。<NHK取材班編『日本の選択1 理念なき外交「パリ講和会議」』1995 角川文庫 p.208-211>

ヴェルサイユ体制の成立

 ヴェルサイユ条約は1920年1月10日に発効し、国際連盟が成立、集団安全保障の理念による平和維持が図られることとなった。これ以降のこの条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制といわれ、ロカルノ条約不戦条約などで補強されて、20年代の国際協調を実現させた。
 ヴェルサイユ体制の最大の問題点は、豊かな工業力を背景に英仏に代わって大国としての地位に立ったアメリカ合衆国と、革命による混乱と干渉を克服して最初の社会主義国として登場したソ連が除外されたことであった。敗戦国ドイツはヴェルサイユ体制のもとでの苛酷な賠償に苦しみ、国内世論のなかに反ヴェルサイユ感情が生み出されていった。
 アメリカ合衆国はウィルソンの国際連盟提案を議会が否決し、国際連盟に加盟しない道を選んだが、資本主義陣営の中心に位置することになったため、国際秩序での主導権を握らなければならない立場に自ら立つようになり、国際連盟の舞台とは別個にワシントン海軍軍備制限条約九カ国条約四カ国条約からなるワシントン体制をつくりあげた。こうして第一次世界大戦後は、ヴェルサイユ体制とワシントン体制によって構築される国際秩序に対して、ソ連を中心とした社会主義陣営が一定の力をもち、それらにアジアやアフリカ、ラテンアメリカなど植民地あるいは従属的国家群の民族独立の大きな流れが対抗していく、という図式を描くことができる。

ヴェルサイユ条約の内容

 その内容は多岐にわたるがまとめると次のようなことになる。
  1. 国際連盟規約。
  2. 領土の処分:
    1. ドイツはすべての海外植民地と権益を放棄する。
      1. 山東半島のドイツ権益は日本に与えられる。
    2. 領土の割譲
    3. 領土の国際管理など
      • ザール地方は国際連盟の管理下におき15年後に住民投票で帰属を決定する。ただし炭鉱の採掘権はフランスが有する。
      • ダンツィヒは自由都市とし国際連盟の管理下におく。港湾管理権はポーランドが有する。
      • 上シュレジェンは21年の住民投票によって帰属を決定する。
        (以上によってドイツは国土の7分の1、人口の10分の1を失い、東部プロイセンと分断された)
  3. 軍備の制限徴兵制は廃止され、陸軍は10万、海軍は1万6500の兵員に制限され、航空機・潜水艦の所有は禁止された。
    また、ラインラントは非武装(ライン川西岸は連合国軍により15年間占領、右岸の50㎞は非武装)とされた。
  4. 戦争責任はドイツにあるとされ、賠償金の支払い義務を課せられる。(1921年に1320億マルクに決定)

ヴェルサイユ条約の問題点

 ヴェルサイユ条約の調印、批准にあたって、次のような問題があった。
  1. アメリカの批准拒否 アメリカ合衆国は、上院でモンロー主義孤立主義)によって共和党が国際連盟加盟に反対したため、1920年3月19日に上院で批准が否決された。そのためヴェルサイユ条約とは別にドイツとの間で1921年に講和条約を締結した。
  2. 中国の調印拒否 またパリ講和会議に参加した中国は、日本の二十一カ条の要求での山東省権益の継承が承認されたことから調印を拒否した。本国の北京政府は調印を指令したが、代表としてパリ講和会議に参加していた顧維均が、本国で五・四運動調印反対の声を聞いて、独自に判断したという。ただし、中国は20年6月にサン=ジェルマン条約を承認することによって、同条約にも規定のあった国際連盟にも加盟している。
  3. 日本の「人種平等案」否決 日本はアメリカで高まった移民排斥問題(移民法)をとりあげ、国際連盟規約に「人種平等原則」を入れるよう主張し、賛成も多かったがウィルソンの反対で採択されなかった。
  4. ドイツの拒否反応 5月に条約草案がドイツ共和国に示されると、異常に負担の重い賠償問題や領土の喪失に対し、国内に強い拒否反応が現れた。そのためバウアー内閣は総辞職せざるをえなかった。結局、条約を受け入れたが、ドイツでは条約と呼ばず「強制的に書き取らされたもの」という意味のディクタートと呼ばれることとなった。その後もドイツではヴェルサイユ条約に対する怨念が継承され、ナチスの台頭の要因となる。
  5. その他の講和条約

     ヴェルサイユ条約は、ドイツと連合国(28ヵ国)の講和条約であり、他の敗戦諸国はそれぞれ別個に講和条約を締結した。1919年9月、オーストリアに対してはサン=ジェルマン条約、同年11月、ブルガリアに対するヌイイ条約、1920年6月、ハンガリーに対するトリアノン条約が締結された。これらの条約により、オーストリア=ハンガリー帝国が解体された。オスマン帝国に対しては1920年にセーヴル条約が締結されたが、その内容に不満なケマル=アタチュルクが指導する民族運動は、1923年に改訂してローザンヌ条約締結に成功する。
    ※なお、ヴェルサイユ条約と他の敗戦国との4条約を含めてヴェルサイユ条約と説明する場合もあり、5条約後の国際秩序をヴェルサイユ体制というのが一般的である。

    Episode ヴェルサイユ条約の日付と締結場所

     ヴェルサイユ条約が締結された6月28日は、5年前にサライェヴォ事件が起こった日であった。また、調印式はパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われたが、そこは1871年に普仏戦争でフランスが敗れたとき、ドイツ帝国のヴィルヘルム1世が戴冠式をあげた場所であった。ここでドイツが講和条約に調印しなければならなくなったことにフランスの大衆は普仏戦争の報復が出来たという感情を持った。

    ヴェルサイユ条約の破棄

     しかし、アメリカ合衆国の国際連盟不参加、敗戦国ドイツに対する苛酷な負担と賠償金問題、社会主義革命によって成立したソ連の不参加、さらに民族自決に基づく植民地の独立要求への対処など重い課題を抱えたまま、この体制は、1929年の世界恐慌を契機として急速に動揺することとなった。1931年の満州事変とそのための33年の日本の国際連盟脱退、同年のナチス=ドイツによるドイツの国際連合脱退に続き、1935年3月のドイツの再軍備1936年のドイツのロカルノ条約破棄(ラインラント進駐)によってヴェルサイユ条約は事実上破棄され、ヴェルサイユ体制は崩壊した。
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