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五・四運動

1919年4月、パリ講和会議に反発し日本の二十一カ条撤廃を要求した中国の民衆運動。中国の民族運動、そして社会主義運動の出発点となった。

 1919年1月のパリ講和会議には、中国は北京政府・広東政府合同の代表を送った。国民はウィルソンの提示した「民族自決」の原則に期待し、代表団は不平等条約の撤廃、山東省の旧ドイツ権益の返還、二十一カ条の無効を訴えた。しかし、4月29日、イギリス・フランス・アメリカ・日本の四ヶ国会議で中国の主張は退けられ、日本の中国での権益はほぼ認められた。そのことが中国に伝えられると、5月4日北京大学の学生三千人あまりがデモをおこない、パリ講和会議の山東に関する条項の承認を拒否し、売国奴(日本との交渉に当たった役人)を処罰することを政府に要求するとともに、かれら自身で人民による処罰を実行したのである。趙家楼にある曹汝霖(交通総長)の邸宅が焼かれ、章宗祥(駐日公使)は大衆に殴打された。しかし三〇数名の学生がデモの途中で北京政府に逮捕された。北京市旧城内におけるこの日の行動は、ただちに全国にひろがり、これ以後、一連の行動が開始された。
 6月3日には学生は授業を放棄(罷課)して街頭で山東の返還、日本製品ボイコットを口々に訴え、商店は一斉に抗議の店じまい(罷市)をし、労働者はストライキ(罷工)によって呼応し、上海は都市機能がストップ、他の都市にも動きは広まった(三罷闘争)。6月10日、北京政府はついに民衆の要求に屈し、売国奴とされた3人を罷免、28日はヴェルサイユ条約の調印を拒否した。後の中国革命の中心となる毛沢東(26歳)や周恩来(21歳)などもこの頃から革命運動に参加し始める。このような五・四運動は、中国のナショナリズムの最初の高揚を示すもので、孫文の新たな中国国民党の組織化と、中国共産党の出現、そして両者による第一次国共合作の成立、軍閥政府の打倒へと展開していく。

中国ナショナリズムの高揚

第一次世界大戦による民族資本の成長を背景に、五・四運動を機に高揚した。

(引用)第一次世界大戦中における中国資本主義の発展は、毛沢東の言葉で言えば「新しい社会勢力」すなわち「労働者階級、学生大衆および新興の民族ブルジョア階級」の政治的台頭を準備した。民族資本家は帝国主義列強の外国資本と対峙することとなり、自然と民族的自覚を深めていった。また中国人労働者も、雇用者である外国資本家と闘争するなかでから、資本家に対する経済闘争としての階級意識、そして外国資本に対する民族闘争としての民族意識が高まっていった。
 ナショナリズム(民族意識)の高まりという質的拡大に転化させた要因としては
  1. 第一次世界大戦が火をつけた、世界的なナショナリズムの高揚、反帝国主義。
  2. 新文化運動(文学革命)が進めた思想革命の影響。それは文字の読めない労働者に文字を与え、人間としての自覚を植え付けた。
  3. ロシア革命によるマルクス主義の伝播。新文化運動で思想的な自覚の素地が生まれた中国に、強烈な救済思想としてのマルクス主義が現れ、労働者が団結を始めた。
 以上のような中国ナショナリズムの最初の高揚が五・四運動であった。<以上、横山宏章『中華民国』中公新書 1997 p.103~>
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ノートの参照
第15章3節 イ.日本の動きと民族運動