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霧社事件

1930年、日本植民地支配下の台湾で、開発の手が内陸高地に及んで生活を圧迫された原住民が反発して蜂起し、日本人を殺害した事件。台湾総督府によって鎮圧されたが、日本の統治者に大きな衝撃を与えた。満州事変前年の事件。

 1895年からの日本統治下の台湾では、台湾総督府による植民地経営が行われた。それ以後、台湾の資源を開発し、教育を普及させて近代化を進めるなどの積極的な施策の一方、特に1919年まで続いた武官総督制の時代には、山岳地帯の無地主地の国有化して開発を進めた。山岳民は狩猟や焼き畑農業の生活基盤が奪われることに強く抵抗したが、総督府は武力によって抵抗を排除しながら、収奪を強めていった。
 1930年10月27日、台湾山岳地帯の狩猟原住民の部族が武装蜂起し、中心村落の霧社(むしゃ)で開催されていた運動会会場を襲撃した。蜂起の中心となったのは当時セデック族といわれた部族で、頭目のモーナ=ルーダオに率いられ、周辺の部族にも働きかけ、周到な計画のもとに霧社の日本人すべてを殺害する計画を立て襲撃した。その場は混乱に陥り、日本人132人(児童も含む)と和服を着ていたため日本人と間違えられた台湾人2人などが殺害された。

頭目モーナ=ルーダオ

霧社事件

中央がモーナ=ルーダオ

 霧社は台湾のいくつかの原住民のグループが共同で生活する集落で、日本の台湾総督府が植民地統治の模範地域として位置づけていたので、衝撃は大きかった。首謀者のモーナ=ルーダオはセデック族の一部族マヘボ社の頭目で、1895年の日本の台湾統治開始に抵抗して戦ったが、1906年に日本軍の武力に屈して帰順してからは、従順な姿勢を採り、良い待遇を与えられ日本視察などにも参加していた。1930年にはすでに初老に近かったが、かつての日本軍との果敢な戦いで知られ、指導力と行動力を持つ頭目として畏怖されていた。
二人の「日本人」 蜂起に参加した現地人の中には、「花岡一郎」と「花岡二郎」という日本人名を持ち巡査(警官)やその助手に採用されていた者も加わっていた。彼らは現地人であったが優秀であったため教育を受ける機会を与えられ、巡査に登用された。血縁関係はないのに日本当局はさも兄弟であるような名前を与え、しかも日本人小学校出の現地人女性に「川野花子」、「高山初子」と名を与えて、官費で和服をととのえ、日本式の婚礼を挙げさせていた。現地人と日本人の間に立って悩んだ彼らは、蜂起軍に協力しながら、混乱の中で一族と共に自殺したとも言われている。

原住民反乱の背景 理蕃政策

 日本統治が始まって30年以上が経過し、台湾人の抵抗は抑えられ、一方で総督府による植民地経営も軌道に乗り、平地では開発が進んでいた。台湾総督はさらに内陸高地の資源獲得を求めて開拓に乗り出し森林の伐採、道路や鉄道の敷設を進めていったが、それは高地で狩猟と焼き畑を続けていた現地人の生活圏を急速に奪っていった。総督府は内陸の狩猟民を蕃人と称し、日本人支配に帰順させるための「理蕃政策」を進め、特に帰順した者を熟蕃、蕃人のままの部族を「生蕃」として区別し、生蕃に対して森林伐採などの苛酷な労働を強制していった。そのような日本総督府の理蕃政策の拠点とされたのが霧社であった。「社」とは集落のことで、霧社はセデック族を構成する幾つかの部族)はそれぞれ社(マヘボ社、ボアルン社、ホーゴー社など)をつくり、その行政上の中心集落が霧社であった。なお、セデック族は従来、近隣の大部族タイヤル族の一部とされていたが、現在は独立した部族だったと認められている。。

Episode 首狩りと汚い酒

 セデック族は高地民の中でも最も勇敢な狩猟民として知られ、周辺部族との間で狩り場をめぐって争い、敵の首を狩ること(漢語では「出草」といわれた)を戦士の誇りとする伝統を持っていたが、日本統治下では首狩りは野蛮な行為として禁止された。独自の風俗を守った彼らは「生蕃」として常に差別され、霧社の小学校でも子供たちは日本人の子どもよりも劣る者として扱われていた。
 そのような原住民の不満が爆発したのが1930年10月27日の霧社事件であった。きっかけは数日前、セデック族の部族民同士の結婚式で、日本人警官が祝いの酒を「こんな汚い酒を飲めるか」(現地人は酒の中にツバを入れて飲む)といって断ったことから口論になり、警官が殴られた事件だった。警官殴打に罰が与えられることを知っていた若者が日本人に対する復讐の機会が来たといきり立ち、マヘボ社の頭目で人望のあったモーナ=ルーダオに蜂起を促したのだった。

襲撃と鎮圧作戦

 日清戦争で日本領となった台湾に侵攻した北白川宮能久親王が現地で死亡した10月28日は「台湾神社祭」にあたり、その前日の27日に、霧社では運動が開かれ、日本人が皆集まることになっていた。運動会が始まり、日の丸が掲揚されると、それを合図にモーナ=ルーダオ率いるセデック族などの現地人約300人が銃と刀で武装して霧社を襲撃した。日本人警官が防戦したが短時間で婦女子も含めて約130人が殺害された。
 大日本帝国のメンツを傷つけられ、裏切られた感を持った台湾総督府は激怒し、本格的な正規の日本軍を動員し、航空機、機関銃、大砲、さらに毒ガスを実験的に使うなど近代兵器を動員して鎮圧にあった。それでも鎮圧に手を焼いた日本軍は、現地の高地民でセデック族と対立関係にあったタウツァ族などの族長らに賞金を与え、また首狩りを許して「味方蕃」として戦わせた。
第2次霧社事件 結局、蜂起の鎮圧には二ヶ月かかり、セデック族は壊滅、モーナ=ルーダオは行方不明となり、部落は焼き払われた。捕らえた蜂起の生き残りは「保護蕃」といわれて女子どもと共に別なところに移住させられた。ところが、翌1931年4月25日、セデック族の生き残りの「保護蕃」の集落は、蜂起に加わらず日本軍の「味方蕃」なった部族に夜襲されて、15歳以上のものをほとんど殺された。これを第2次霧社事件という。

蜂起のその後

 高地民の反乱という事態に衝撃を受けた総督府は、それまでの高圧的な統治法を改め、「生蕃」・「熟蕃」などの侮蔑的な呼称を廃止しそれぞれ「高砂(たかさご)族」・「平埔(へいほ)族」に改める、などの処置を執った。しかし、日本はその頃、前年の世界恐慌の影響もあって不況が深刻になっており、それを打開するように翌1931年には満州事変を起こし、37年には日中戦争へと突入していく。それにあわせて台湾統治に対しても1936年に武官総督制を復活し、より徹底した植民地統治方針、つまり皇民化政策を導入することとなる。戦争末期には、山岳民つまり高砂族はジャングル戦に慣れているとして日本軍に徴兵され、「高砂義勇兵」として太平洋戦争のフィリピン戦線やガダルカナルなどに送られたのだった。 <戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>
 → <毎日新聞 2019/10/26 記事 台湾「霧社事件」を歩く>

映画 『セデック・バレ』

 『海角七号』などで台湾映画に新風を吹き込んだ映画作家ウェイ・ダージョン(魏徳聖)が2013年に発表したアクション大作、という触れ込みの長大な2部作で描く霧社事件の全貌。今まで文字とわずかな写真でして伝えられていなかった霧社事件を、見事な映像美で、しかも歴史事実に基づいて描いた。アクションシーンが多いのは現代の映画として致し方ないが、そのテンポが良く4時間を飽きさせない。
 セデック・バレ Seeiq bale とは、「セデック族の真の人」の意味で、勇敢に戦って敵の首を狩ったものが真の人として先祖が待つ「虹の橋」を渡ることが出来るという伝承によるという。首狩りというショッキングな行為だが、映画を見ているうちにそれを「野蛮」として否定する「文明」とは何なのだろう、と考えさせられてしまう。
 それだけで無くこの映画が衝撃的なのは、台湾の原住民の生活、心情、社会、風俗、そしてそれを踏みにじっていく日本の植民地支配の実情が誇張なく描かれていることだ。モーナ=ルーダオたちのセリフも原住民の言葉で通されている。日本人警察やその家族、軍人も日本人俳優(安藤信正、木村光一、ディーン=フジオカなど)が演じ、けして戯画化されていない。ドラマの中心になるのは、花岡一郎と二郎という日本名を与えられた現地の二人の青年とその妻たちだ。台湾映画の力作であると共に、日本の台湾植民地支配の中での事件(というより戦争だが)を世界史的出来事として捉える意味でも見ておいた方がよい。映画にでてくる原住民部族の違いがわかりずらいが、その辺はウェイ・ダージョンが映画に沿って書いた書物版『セデック・バレ』を読むと良いだろう。なお、ウェイ・ダージョンがプロデュースしたドキュメンタリー作品に、事件のその後を描いた『餘生~セデック・バレの真実』があるそうだが、未見。
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書籍案内

伊藤潔
『台湾 四百年の歴史と展望』
1993 中公新書

戴國煇
『台湾-人間・歴史・心性-』
1988 岩波新書

魏徳聖/厳云農
水野衛子訳
『セデック・バレ』
2015 出版ワークス

映画『セデック・バレ』の小説版。併せて読むと良い。

周婉窈/浜島敦俊監訳
『増補版 図説台湾の歴史』
2007 平凡社

二組の花岡夫妻についての記述がある。

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ウェイ・ダージョン監督
リン・チンタイ出演
『セデック・バレ』第1部
2013 台湾映画

ウェイ・ダージョン監督
リン・チンタイ出演
『セデック・バレ』第2部
2013 台湾映画