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霧社事件

1930年、日本植民地支配下の台湾で、原住民が蜂起し日本人を殺害した事件。台湾総督府によって鎮圧されたが、日本の統治者に大きな衝撃を与えた。満州事変前年の事件。

 1930年10月27日、日本統治下の台湾で、原住民の集落の霧社で開催されていた運動会会場を、武装した台湾の少数民族(山地先住民と言われた)アタイヤル族のグループが襲撃した。蜂起したのはアタイヤル族といわれる部族の一部で、モーナ=ルーダオという指導者が率い、周到な計画のもとに霧社の日本人すべてを殺害する計画を立て、運動会で日の丸が掲揚されるのを合図に襲撃した。その場は混乱に陥り、日本人132人(児童も含む)と和服を着ていたため日本人と間違えられた台湾人2人などが殺害された。
 霧社は台湾のいくつかの先住民のグループが共同で生活する集落で、日本の台湾総督府が植民地統治の模範地域として位置づけていたので、衝撃は大きかった。特に蜂起に参加した現地人の中に現職の巡査(警官)や助手が加わっていたことで、彼らは「花岡一郎」と「花岡二郎」という日本名を与えられていた。彼らは血縁関係はないのに日本当局はさも兄弟であるような名前を与え、しかも現地人で日本人小学校出の女性に「川野花子」、「高山初子」と名を与えて、官費で和服をととのえ、日本式の婚礼を挙げさせていた。また、首謀者のモーナ=ルーダオにも早くから良い待遇を与え、日本視察なども行わせていた。
 裏切られた感を持った台湾総督府は激怒し、正規軍ばかりか航空機、機関銃、大砲、さらに毒ガスを実験的に使うなど基台兵器を動員して鎮圧にあった。それでも蜂起の鎮圧には二ヶ月かかり、捕らえた蜂起の生き残り(保護蕃)を一ヶ所に集め、1931年4月25日に蜂起に加わらなかった部族(味方蕃)をそそのかして夜襲させ、15歳以上のものをほとんど殺した(第2次霧社事件)。

蜂起の原因とその後

 霧社事件が起きるまで、1895年から日本領となった台湾では、台湾総督府による植民地経営が行われた。台湾の資源を開発し、教育を普及させて近代化を進めるなどの積極的な施策の一方、特に1919年まで続いた武官総督制の時代には、山岳地帯の無地主値を国有化を進めた。山岳民は狩猟や焼き畑農業の生活基盤が奪われることに強く抵抗したが、総督府は武力によって抵抗を排除して収奪を強めていった。
 高地民の反乱という事態に衝撃を受けた総督府は、それまでの高圧的な統治法を改め、「生蕃」・「熟蕃」などの侮蔑的な呼称を廃止しそれぞれ「高砂族」・「平埔族」に改める、などの処置を執った。しかし、日本はその頃、前年の世界恐慌の影響もあって不況の底にあり、それを打開するように翌1931年には満州事変を起こし、日中戦争へと突入していく。それにあわせて台湾統治に対しても1936年に武官総督制を復活し、より徹底した植民地統治方針、つまり皇民化政策を導入することとなる。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>
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書籍案内

伊藤潔
『台湾 四百年の歴史と展望』
1993 中公新書

戴國煇
『台湾-人間・歴史・心性-』
1988 岩波新書