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日清戦争

1894~95年、朝鮮における甲午農民戦争を契機に起こった日本と清の戦争。日本が勝利し、大陸への最初の足がかりをつくった。

 朝鮮に対して清は伝統的な宗主国としての影響力を強く維持しており、それに対して日本は江華島条約以来、経済的進出を強めていた。朝鮮王朝内部にも清との関係を重視する保守派(事大党)と、日本に倣って改革を実現しようとする改革派(独立党)が争っていたが、1884年の甲申政変で独立党のクーデターが失敗し、保守派と結ぶ王妃閔妃と閔氏一族が権力を握っていた。朝鮮での主導権を清に握られた日本は、勢力回復の機会を探っていた。その間、朝鮮では日本資本主義の経済進出によって物価騰貴、穀物不足が続き、外国に従属する閔氏政権への不満が高まっていった。
 1889年には凶作が重なり、朝鮮政府が防穀令を出して穀物の日本輸出を禁止したことに対し、日本が貿易に対する妨害であると厳しく抗議して紛争となった防穀令事件が起こった。

甲午農民戦争の勃発

 1894年2月、朝鮮の民間の反キリスト教教団である東学全琫準に率いられた農民反乱はたちまち全羅南道全域に波及して、甲午農民戦争(東学党の乱)といわれる)が起こると、朝鮮王朝政府は独力で鎮圧することが出来ず、清(代表として朝鮮にいたのは袁世凱)に出兵を要請した。日本も天津条約にもとづいて出兵した。日本の介入に驚いた朝鮮政府は農民軍といったん講和した。
 農民戦争の講和は日清双方の出兵理由がなくなることなので、交渉の上、6月に同時に撤兵することで合意した。しかし開戦の機会をさぐる陸奥宗光外相はこれを破棄し、代わって両国で朝鮮の改革に当たることを提案した。理由のないこの提案を清側が拒否すると、陸奥は大鳥圭介公使に対し「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」と指令した。

甲午の改革

 日本はソウルを占領して朝鮮王朝に圧力を加え、7月に閔氏政権に代わって、かつての改革派に属していた金弘集に内閣を組織させた。しかし金弘集内閣は必ずしも日本の傀儡政権となったのではなく、その改革には封建社会からの脱却を目指す土地改革なども含んでいたが、日本の軍事力を背景とした上からの改革は民衆の支持を受けることはできなかった。

戦争前の情況

 清では光緒帝は開戦論に傾いていたが、李鴻章は配下の北洋艦隊を温存したいため開戦には消極的であった。日本では、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を表し、伊藤博文も慎重論であった。それは当時、条約改正交渉の相手であったイギリスの出方をうかがっていたからだったが、7月16日、日英通商航海条約が成立して治外法権の撤廃に成功し、問題はなくなった。一方ロシアは、1891年からシベリア鉄道の建設を開始していたが未完成であり、アジアへの兵力輸送が迅速にできないことから、介入できなかった。

日清戦争の勃発

 1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、新軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。8月1日に双方が宣戦布告、清軍は平城に兵力を結集したが、9月16日に全軍が総崩れとなって撤退、平城の戦いは日本軍の勝利となった。海上では翌日、日本の連合艦隊が北洋艦隊を捕捉し、致遠などの主力艦3隻が撃沈されるという黄海海戦で大敗した。ここまで、日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、10月には日本軍が鴨緑江をわたって清国内に入り、遼東半島に侵入、11月に旅順を占領した、このとき旅順市民を殺害して国際的に非難された。

第二次甲午農民戦争の勃発

 全琫準の指導する東学と農民軍は、日本軍のソウル占拠をうけて、戦闘再開を準備し、10月から日本軍との戦闘を開始した。すでに清軍との戦闘で勝利していた日本軍は、全力で農民軍との戦闘に兵力を充てたため、農民軍は圧倒され、激戦の末、次第に追いつめられていった。翌1895年1月、山中に隠れていた全琫準も捕らえられ、農民戦争は壊滅した。

講和交渉

 冬を越して1895年1月末、日本海軍は北洋艦隊の拠点、威海衛を攻撃、陸軍も山東半島に上陸して陸上から攻撃した。2月に水師提督丁汝昌が自決して降伏した。戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、李鴻章が下関会談で伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じた。この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島を占領した。  同年、講和会議の結果、下関条約が成立して終結、日本は賠償金とともに、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を受けるなど、十分な成果を得た。

日本への影響

 近代日本にとっては、最初の近代戦の体験であり、その勝利によって大陸侵出の足がかりをつかみ、また2億両の賠償金は国内の製鉄業の育成、金本位制の実施など資本主義体制を確立させることに大きく寄与した。なお、この2億両(テール)の賠償金は金塊として支払われ、日本はそれをイングランド銀行に預けた。 → 日本の産業革命
 このように日清戦争は日本がアジアの強国として台頭する第一歩となったが、それは東アジアに権益を有するヨーロッパ諸国を強く刺激し、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によって遼東半島は還付されることとなる。しかし、台湾を最初の植民地として獲得し、アジアの中で他民族を侵略する立場に立つことになった。この戦争での勝利は、近代日本が国内の半封建的な社会矛盾をかかえながら、アジアに領土・植民地を拡張するため軍事力に依存していくという、軍国主義化の第一歩でもあった。

朝鮮への影響

 日清戦争の戦場となったのはほとんど朝鮮半島であった。また日清戦争といいながら、そのなかで日本軍と朝鮮の農民軍が戦った戦争であったことも忘れてはならない。朝鮮にとってはこの戦争に敗れた清国が下関条約によって朝鮮に対する宗主権を砲kしたことによって、近代的な主権国家として自立することになった。しかし、清は後退したものの、日本とロシアの朝鮮の利権を巡る対立が新たに表面化することとなる。その対立は1895年、親ロシアの姿勢を強めた王妃閔妃が日本公使の送った暗殺団によって宮中で殺害されるという閔妃暗殺事件となって現れた。このような強引な日本の介入はかえって反発を買い、ロシアの侵出が顕著となると、日本では反動的に「朝鮮は日本の生命線だ」という意識が強まり、ロシアの排除を目指して日露戦争へとつながっていく。

日清戦争での清の敗北

 日清戦争の敗北は清朝にとってベトナムをめぐる清仏戦争(1884~86年)での敗北とともに、大きな衝撃となった。台湾の割譲、2億両の賠償金、朝鮮宗主権の放棄は清朝にとって屈辱であっただけでなく、国家のあり方への反省の機会を与えた。また、“眠れる獅子”清朝の敗北は、帝国主義列強による1898年の中国分割につながることとなった。 → 清の動揺

戊戌の変法とその挫折

 清の敗北の理由は、日本が幕藩体制を克服して近代的な国家体制を整えていたのに対して、清の洋務運動では富国強兵策がとられたものの、中体西用の思想によって技術面だけの西欧化にとどまり統一的な国家意思の形成がなされなかった。日本軍と戦った清軍の核をなす北洋軍は、李鴻章の私兵にすぎなかった。日清戦争の敗北はそのような問題点を白日の下にさらしたので、下関条約締結反対を主張する洋務派の官僚や知識人、青年の中に近代的な政治体制の確立をめざす運動が始まった。その中心となったのが康有為梁啓超らであり、彼らの改革への熱心な提言を取り上げたのが光緒帝による戊戌の変法であった。軍事面では、袁世凱がドイツ人将校の指導ではじめて西洋式陸軍である新建陸軍(新軍)を編成した。しかし、この改革は西太后ら保守派の反対で潰される。次いで1900年には義和団事件が勃発し、乱後の光緒新政も失敗し、清朝の滅亡へと加速していく。

中国分割の進行

 また、日清戦争での敗北は、対外的にはそれまで“眠れる獅子”と言われていた清朝が同じアジアの新興国で小国に過ぎない日本に敗れたことによって、その弱体をさらすこととなった。三国干渉で清朝を助けたロシア・フランス・ドイツはその報酬を要求して中国分割に乗り出した。すでに中国に大きな利権を得ていたイギリスも同調し、1898年には次々と租借地を獲得し、勢力圏を設定していった。出遅れたアメリカは門戸開放宣言を出して利権に割り込みを図った。

日露の対立

 それらの中で特に積極的な動きを見せたのが、露土戦争後のベルリン会議(1878)でバルカン方面への進出にストップをかけられたロシアと、朝鮮半島への進出を開始した新興国日本であった。イギリスはロシアの進出を警戒して、1902年に日英同盟を結び、日本をアジアにおけるパートナーとする。こうして日清戦争後のアジアの国際情勢は、ロシアと日本の対立を軸に展開されることになる。