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毒ガス/化学兵器

第一次世界大戦でドイツ軍が初めて使用した新兵器。殺傷能力のある有毒ガスを噴射して敵軍に打撃を与えようとするもの。非人道的兵器として国際的には使用は禁止されたが、その後も使用の例が見られる。

毒ガス
毒ガスの散布
 第一次世界大戦の際、ベルギーの西端にあたるイープルでの、ドイツ軍と連合軍の1914年10月~11月の第1次、1915年4月~5月の第2次、1917年秋の第3次の3次にわたる戦闘が行われた。このイープルの戦いの第2次戦闘で、ドイツ軍は始めて毒ガスを使用した。
 使用されたのは塩素ガスで、1915年4月22日一日で連合軍側に5000人の死者が出た。イギリスの助かった兵士の中にいた化学者はすぐに塩素ガスであることに気づき、ただちに本国に報告、塩素を中和するハイポ(次亜塩素酸)をしみこませた綿で防毒マスクを作り、戦線に配布した。その結果、西部戦線ではそれ以上毒ガスの被害は広がらず、東部戦線で使用されるようになる。その後毒ガスはイペリットやホスゲンなど毒性の強いものが作られ、フランス軍も使用し、両方の陣営で100万の兵士が犠牲になったといわれる。なお、塩素ガスをイペリットというのは、イープルで使用さえたことから付けられた。
 毒ガスは助かっても後遺症(失明など)がひどかったから、その使用はすでにハーグ万国平和会議(1899年、1907年)で禁止されていたが、法的拘束力はなかったため列強は遵守しなかった。実際に悲惨な状況が現れたため、第1次世界大戦後になって再び問題視されるようになり、1925年のジュネーヴ協定で改めて毒ガス・細菌など化学兵器は禁止された。アメリカと日本はジュネーブ協定を批准しなかった。
 世界恐慌後に台頭したファシズム国家においては、毒ガスは公然たる秘密として開発され、イタリアは1935年、エチオピア併合の過程で使用し、日本もまた日中戦争で毒ガスと細菌兵器を使用した。ナチス=ドイツはユダヤ人の大量殺害の手段として収容所においてガス室を使用した。

毒ガスの開発者

 当初のもくろみに反し、第一次世界大戦は長期化の様相を呈し、塹壕戦に移っていった。両陣営でも塹壕戦に対応した新たな戦闘方法と武器が必要になった。それに対応したのがイギリスでは戦車(タンク)であり、ドイツでは毒ガスであった。
フリッツ=ハーバー ドイツ陸軍省の委託を受け毒ガスの開発、製造、使用の責任者になったのはフリッツ=ハーバー(1868~1934)であった。ハーバーはドイツ国籍を持つユダヤ人で、化学者としてはすでに水と空気から得られる窒素からアンモニアを合成することに成功し、国外からの原料輸入に依存せず肥料を生産できるようにしたため、ドイツの戦争遂行に大きな貢献をした最も優れた化学者と言われていた。塹壕戦で有効な毒ガスの特性として、空気より重く地に這うように広がること、においも色もなく存在に気付かれないこと、輸送が容易であること、そしてドイツ国内で原料が得られることが必要とされた。ハーバーは助手たちと実験を進め、塩素ガスに行き着いた。塩素ガスは空気の2.5倍重く、たこつぼや塹壕に沈んでいく。またボンベに詰めて蓄え、輸送することも容易でり、しかも原料の食塩は岩塩という形でドイツで豊富に産出される。何よりも毒性が強く少量でも人を殺すか、行動の自由を奪うことができる。唯一の欠点は、黄緑色で激しいにおいがすることだった。ハーバーははじめ砲弾に詰めて発射しようと考えたが、弾丸の火薬の量を減らさなければならなくなるので断念し、風が連合軍側に吹いている時を狙ってガスをボンベから放出するという方法を提案した。
毒ガスの使用 毒ガスは1915年4月22日、西部戦線のイープルの戦いではじめて使用された。「見張所の兵士は、緑がかった雲が白煙を従えて、約1mの高さで自分の方に動いてくるのを見た。ガスはざんごうに達し、その中に沈んでいった。恐怖の叫びがあがった。はじめ目と鼻とのどがきりきり痛みはじめた。数分とたたないうち、多くの兵士はひどくせきこみだし、ついで血をはいた。・・・」この戦闘で連合軍は5千の兵士が殺され、1万5千がガスに中毒した。しかし、ドイツ軍の司令官は毒ガスの使用に熱心ではなかった。それはフランドルでは風の状態は不安定で、どちらかというと西風が多く、ドイツ側が風下になることが多かったからであり、部隊の行動の自由が奪われるためであった。
ハーバー、ノーベル賞受賞 ハーバーは前線で毒ガスの使用の指揮を執ったという。彼はすぐ新設された陸軍省化学部長の地位に昇った。ユダヤ人としては破格なことであった。ドイツは敗戦となり、連合国では憎悪の目で見られていたが、なんと1918年のノーベル賞(化学賞)を受賞した。その対象となった業績はアンモニア合成法(これはハーバー=ボッシュ法といって現在も利用されている)であった。ハーバーの受賞には反対も多かったが、その戦争協力は犯罪とされなかった。
ユダヤ人ハーバーの受難 ノーベル賞受賞という禊によって、ハーバーは大戦後のドイツ科学界の大立て者として活躍、研究所を主催するなど、世界的化学者としての栄誉も与えられた。しかし、1930年代、その生涯は暗転した。ヒトラーのナチスによるユダヤ人排斥が、ハーバーにも及んだのだった。ハーバーもその例外ではなく、大戦中の祖国に対する貢献は無視され、研究所を追われた。やむなくスイスに移住、さらにかつての敵国イギリスのケンブリッジに迎えられた。しかしイギリスではハーバーの過去の行いが問題とされ、安住の地にはならなかった。やむなくスイスに戻ったが、34年1月にバーゼルで心臓発作のために死去した。<以上、サトクリフ/市場泰男『エピソード科学史』化学編 1971 現代教養文庫 p.180-190 による>

Episode ドイツの毒ガス開発者の妻、自殺する

 毒ガスの開発にあたった化学者フリッツ=バーバーに対し、妻クララはそれを止めるよう懇願した。しかし、ハーバーはその懇願を受け入れず、研究を続行した。1915年4月、イープルで毒ガスが使用されて多数の犠牲者がでると、それを知ったクララは耐えられず、5月2日に自殺した。
 妻の自殺にもめげず、ハーバーは毒ガスの研究をやめなかった。やがて東部戦線でもは連合国軍も使用するようになった。クララの反対にもかかわらず毒ガスの開発をなぜ進めたハーバーにはどのような信念があったのだろうか。ある人に問われたとき、彼は「毒ガスの開発はフランスの方が先に手を付けた。先に実用化させて戦争を終わらせた方が人びとを救うことになる」と答えたという。ウィキペディア ハーバーの項
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ノートの参照
第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
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サトクリフ/市場泰男訳
『エピソード科学史』
Ⅰ化学編
1971 現代教養文庫