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満州事変

1931年、日本の関東軍が柳条湖事件を契機に中国軍との戦闘に突入、満州を占領した。翌年、満州国を建国。十五年戦争の始まりとなり、1937年には全面的な日中戦争に突入した。

 1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は、それを中国国民軍に属する張学良軍の犯行であると断定し、鉄道防衛の目的と称して反撃し、軍事行動を拡大した。この柳条湖事件から開始された、宣戦布告なしの日中両軍の軍事衝突を満州事変といった。その真相は戦争中は伏せられていたが、戦後になって関東軍の謀略であることが明らかになった。 → 「事変」の意味については、支那事変を参照。
 関東軍の攻撃に対し中国国民党の東北軍(張学良指揮)はほとんど抵抗せず、関東軍は一気に満州全域を占領した。これは蔣介石が、当時は抗日よりも、共産党との内戦に力を入れていたためであった。

関東軍の意図

 満州事変は、中央の日本政府や軍首脳の承諾もなく、関東軍中枢の軍人によって計画され、実行された謀略であった。それを推進したのは関東軍参謀の石原莞爾中佐であったとされている。「満蒙(満州と内蒙古)」は日本の生命線であるという陸軍伝統の発想に加え、石原中佐ら関東軍参謀は世界恐慌による不況で満鉄の営業利益が悪化し、しかも張学良が満鉄と競合する新鉄道の建設を進めていることに危機感を持ち、満州を中国政府から分離させ、日本が直接統治すべきであると考え、そのためには政府の承認などの手続きによらず、謀略によって軍事行動を起こすしかない、と思っていた。石原莞爾の構想では、満州は独立させるのではなく日本が直接統治し、それは中国本土まで拡大してはならない、というものであった。なお、石原は日本が満州を支配することによって、将来のアメリカとの世界最終戦争に備えるという、妄想ともいえる戦略を構想していたという。

日本政府の不拡大方針とその挫折

 若槻礼次郎首相のもとで外相を務めていた幣原喜重郎は、関東軍の謀略であることを疑っていたが、自衛のためであるという軍の主張には反論できず、軍事行動は認めざるをえなかった。しかしそれ以上の拡大は認めないという不拡大方針を閣議決定とし、国際世論に配慮して中国側と撤兵を前提とした交渉を開始することとした。しかし、出先の関東軍の行動を追認した軍首脳は、撤兵に反発、南次郎陸軍大臣の辞任をちらつかせて若槻首相を揺さぶった。関東軍は不拡大方針を無視して軍事行動を拡大、欽州爆撃を行い、さらに北満州のチチハルまで広げた。若槻首相、幣原外相はもはや関東軍を統制できないところに追い込まれ、12月に総辞職、犬養毅内閣に替わった。

諸外国の動き

 満州事変に対してアメリカは強く反発し、1932年1月、フーバー大統領は国務長官スティムソンの名で、日本の満州における軍事行動は九カ国条約(中国の主権尊重、機会均等、門戸開放の原則)と不戦条約に違反しているので承認できないという声明(スティムソン=ドクトリン)を発表した。しかし経済制裁などの実力行使は行わず、またイギリスも事態が満州に限られている間は黙認するという態度をとった。
 中国政府(蒋介石)は日本軍の侵略行為であるとして国際連盟に提訴した。国際連盟では日本も含む常任理事会で撤退勧告が可決され、また日本の提案によって調査団が派遣されることとなった。
ワシントン体制の崩壊 満州事変で日本が公然と中国大陸への侵略を開始し、それをアメリカ・イギリスが阻止できなかった(しなかった)ことは、第一次世界大戦後のアジアの国際秩序とされていた、ワシントン会議(1921~22年)で成立した九カ国条約を柱とするワシントン体制が、事実上崩壊したことを意味している。それは、ヨーロッパにおけるロカルノ体制が、ヒトラーの登場によって破られていくのと時を同じくしており、ヴェルサイユ体制の両輪が崩れたことを意味していた。集団安全保障の仕組みが不十分であり、またその理念が忘れられたのだった。

上海事変とその失敗

 翌1932年1月、関東軍は北満州の中心地ハルピンを占領、海軍を主体とした日本軍は中国本土で上海事変を起こし、戦火を拡大して中国に圧力を加えた。まさにこの1932年2月、国際連盟(すでにドイツは加盟し、理事国となっており、ヒトラー政権成立の前であった)は非加盟国のアメリカとソ連も参加してジュネーヴ軍縮会議を開催し、国際連盟は世界大戦の再発を防止すべく(最後の)努力をしていたのだった。日本の満州事変後の動きに国際的関心が強まっているなかで、上海事変を引き起こすという世界の動きから隔絶した日本の侵略行為は、世界的な理解を得られるはずはなかった。こうして中国本土への侵略は、中国軍の抵抗と国際世論の反発によって失敗し、石原莞爾らも満州の直接支配をあきらめ、陸軍首脳の意向を受けて満州に傀儡政権を樹立する策に転換し、満州国を建設して支配領域を確保する方向へと向かった。

満州国の建設

 関東軍は清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、1932年3月に満州国を建設した(当初は溥儀は執政となった)。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという五・一五事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、日満議定書を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの国民は関東軍の行為を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎した。

国際連盟の動き

 日本政府は、満州国の建国は満州人の自主的な独立国家の建設であると主張したが、中国の提訴を受けた国際連盟リットン調査団を現地に派遣した。調査団は関東軍の謀略の可能性を指摘した報告書を提出し、1933年2月の国際連盟総会は、満州国を不承認と日本軍の撤退を42ヵ国の賛成、反対1(日本)、棄権1(タイ)で可決した。それを不服とする日本は国際連盟を脱退、孤立を深めていく。

日中戦争への道

 1933年5月に塘沽停戦協定を締結して中国政府に事実上、満州国を承認させた。同時に停戦が成立し、満州事変としては一応収束したが、この1931年の満州事件によって日本と中国は、宣戦布告無き戦争状態に入り、1937年には盧溝橋事件から全面的な日中戦争に突入する。1941年には太平洋戦争に戦線が拡大、1945年の日本の敗北までの15年間にわたり戦争が続いた。満州事変からのこれらの戦争を総称して十五年戦争という。

日中の関係回復

 満州事変から始まった日本と中国の不正常な関係は、戦後もすぐには解消されず、ようやく1972年の田中角栄首相の訪中による日中国交正常化交渉の結果、同年に出された日中共同声明によってであった。従って日中関係は日中戦争を挟んで前後40年にわたっていたことになる。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗