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済南事件

1928年5月、北伐中の中国の国民革命軍に対し、日本人居留民保護を口実に日本軍の山東出兵に際し、日中両軍が衝突した事件。日中戦争以前の衝突で、双方に犠牲者が出たが、中国国民の反日感情を増幅させた。

済南 GoogleMap

 さいなんじけん。済南は山東省の中心都市で、黄河河畔の東西交通の要衝にあたる。日本政府は蔣介石の率いる国民革命軍北伐が進むなか、1928年4月、居留民保護を名目に第2次山東出兵を行い、大陸深く進出して、済南に陣を布いた。1928年5月3~11日、両軍が衝突し、日本側は23名、中国側は1000名の死者を出した。日本の現地軍は中国側に謝罪を求め、容れられないと一般市民も巻き添えに市民と兵士の多くを殺害した。中国側ではこの事件を「済南惨案」といっている。中国民衆は憤激したが、蔣介石は日本軍との全面衝突を避け、本隊は済南を迂回させ、北京を目指すこととした。

日中戦争の前哨戦となる

 済南城を占領した日本軍は、1929年3月末の和平交渉の結果、5月末に撤退した。この事件で日本軍は居留民保護のために出兵したが、最終的には日本の民間人12名が死に、50~60が負傷した。日本軍の死傷者は約500人、中国側は死者3600人、負傷1400人(中国側の発表)に達した。済南事件は日清戦争以来の日中の軍事衝突であり、1931年の満州事変から実質的に開始される日中戦争の前哨戦となった。<数値は、三野正洋ら『20世紀の戦争』朝日ソノラマによる>

済南事件の事後処理

 済南事件の事後処理は、日本と中国との間で紛糾して長びいた。それは日本側が賠償にこだわったことが理由であったが、中国側は関税自主権を回復し、綿布・雑貨など日本の主要輸出品目に保護関税をかけようとしたことも日本が消極的になった要因だった。日本側には「暴支膺懲」(暴虐な支那をこらしめよう)という世論が強かったことも背景にあった。
 この間、蔣介石の国民革命軍は北上を続け、1928年6月9日には北京に入城、軍閥を一掃して中国統一を完成した。すでに共産党とも決別していた蔣介石が軍閥を押さえて中国を統一したことを歓迎したアメリカは、国民政府(南京政府)を承認、1928年7月関税自主権の回復を認め、ドイツ、イギリス、フランスなどが同年中にそれに続いた。

遅れた新関税協定

 日本は済南事変の和平が進まなかったため、国民政府承認、関税交渉が遅れることとなった。ようやく1929年3月、和平が成立、解決文書が調印されて山東省の日本軍が撤退した後、日本は1929年6月国民政府を承認、さらに関税自主権の回復の承認(新関税協定)は1930年5月にずれこんだ。また日本の最恵国待遇があったため、中国の他の国との新関税協定は実質的に実施できなかった。独り日本がそれを阻害する形になっていた。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.55>
 なおこの日中の新関税協定で、日本は中国を従来は「支那共和国」「支那国」と呼称していたが、中国側の感情に配慮して「中華民国」という正式呼称に切り替えた。その後10月末に浜口雄幸内閣(外相幣原喜重郎)は外交公文書においては「中華民国」を使用することを閣議決定した。中華民国が成立してから19年目のことであった。しかし、「支那」の使用はその後も続き、「支那事変」も正式呼称とされ、民間においても中国に対する侮蔑意識とともに残り続けた。<石川『同上書』 p.56>