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ハリジャン

ガンディーが不可触民をこう呼び、その解放、平等化の運動を行った。

 インドのカースト制社会の中で、カースト外に置かれた被差別、被抑圧民が存在した。彼らは不可触民はパーリヤ等と言われ、動物の屠殺や皮革業、死体の処理などを世襲し、村落の中で差別されながら貧困に苦しめられていた。ガンディーは、このような差別はヒンドゥーの教えに反するとして反対していた。ただし、ガンディーのカースト制に対する考えは微妙で、熱心なヒンドゥー教徒であったからヴァルナについては肯定しており、またヴァルナによる職業の固定は認めていたが、ヴァルナ間の身分の高低に基づくジャーティについては否定していたとされている。その思想からガンディーは、カースト身分の下におかれた不可触民=パリジャンが差別されることを反対した。
 インドでは第一次世界大戦後、1920年代からガンディーらが自治を実現すべく、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を続けており、1930年代には第2次非暴力・不服従運動はさらに大きな運動として盛り上がっていた。それに対して、イギリス当局はいわゆる分割統治による運動の分断を図り、不可触民に対して州議会選挙の特別枠(不可触民だけが立候補できる選挙区)を作ることを英印円卓会議で提案(コミュナル裁定)してきた。

イギリスの分割統治の策謀

 この分離選挙制度は、コミュナリズムといわれる宗教の違いやカーストの違いで形成される社会集団(コミュナル)間の対立を利用しようとする分割統治の策動であり、不可触民に一定の議席を与えて、国民会議派の議席をその分だけ減らすことを狙ったものだった。
 それに対して、自らも不可触民出身でその解放運動を行っていたアンベードカルらはそれを受け入れようとした。これに対して獄中のガンディーは、不可触民に選挙上の枠を与えることは、インド社会の呪うべき慣習を法的に固定化することであると考えて強く反発し、抗議の断食に入った。それにならって多くのヒンドゥー教徒も断食に入り、またコミュナル裁定の廃止を嘆願した。ヒンドゥー教徒の指導者は不可触民のために保留議席を設けることを決め、分離選挙制だけは廃止するという妥協を提示し、イギリスもそれを認めたため、ガンディーは断食を中止した。

ガンディーのハリジャン運動

 このような数千年にわたるインドの因習である不可触民の解放が、最も困難であり、最も重要な課題であると考えたガンディーは、不可触民をハリジャン(神の子)と呼び、その解放による農村復興運動(ハリジャン運動)に賭けることにした。1933年8月に出獄すると、農村を遊説して廻り、偏見をなくすよう平等を説いて、みずからハリジャンの女の子を養女とした。こうしてハリジャン運動という社会運動に傾斜したガンディーに対して、イギリスとの政治的な戦いを進めようとするネルーやチャンドラ=ボースは不満を持つようになった。このような対立が生じたため、1934年5月に非協力運動の停止を指令した。ガンディーは政治的な独立よりも、自立した平等な社会を作ることこそが真の独立だ、と考えていたのに違いない。
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