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コミュナリズム/インドの宗教対立

宗教集団(コミュナル)が他の宗教団体を排除する思想をコミュナリズムという。特にインドのヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立関係をさす。インドにおける政治的対立の基軸にあると対立と指摘されている。

 宗教集団(コミュナル)が、自己の集団の優位を主張して、他の集団を排除する思想をコミュナリズム(communalism はインド製の英語で宗派主義、宗団主義などと訳す)といい、特に近代インドにおけるヒンドゥー教イスラーム教の対立の問題(シク教徒や仏教徒との対立も含む)を指している。インドにおいてはこのようなコミュナリズム、つまり宗教対立が深刻であり、近代から現代に至るまで大きな問題となっている。コミュナルには社会集団という意味もあり、ヒンドゥー教徒の中にも、カースト間の対立、あるいは不可触民を排除しようと言うコミュナリズムも存在した。

インドの二つの宗教

 13世紀にイスラーム王朝のデリー=スルタン王朝が北インドに成立してから、ムガル帝国にいたるまで、支配者がイスラーム教徒(ムスリム)で、被支配者がヒンドゥー教徒という関係が成立した。この間、イスラーム教はスーフィズムの活動によって民衆にも広がり、ヒンドゥー教側でもその影響を受けて改革運動(バクティ運動)が起こり、両者を採り入れたカビールや、シク教を創始したナーナクなどが現れた。ムガル帝国のアクバル帝はヒンドゥー教徒とのジズヤを廃止するなどの融和を図るなど、ヒンドゥー教徒に配慮していたこともあって、ムガル帝国は権力を維持した。しかしアウラングゼーブ帝はイスラーム教の立場を強め、ヒンドゥー勢力に対する征服活動や、ジズヤの復活などを行った。しかし、概してムガル帝国のもとでインドの村落では両宗教は共存していた。

イギリス統治下の両信徒の社会的地位の格差

 イギリス統治下のインドにおいて、それまでの支配者としてのイスラーム教徒(ムスリム)の地位は奪われた。またヒンドゥー教徒は他宗教に比較的寛容で、イギリスのもたらした文化を受容して英語教育を受け、その結果、社会的地位を高めたが、ムスリムは西洋文明を許容しようとせず、英語教育も拒否したので、社会的地位が低くなった。(ヒンドゥー教徒は医者、弁護士、役人になったがムスリムはほとんどならなかった)そのためムスリムは少数派として差別されているという意識を持つようになり、ヒンドゥー教徒への反発が強まった。<森本達雄『インド独立史』1972 中公新書 p.86,90>

インドにおける宗教対立の背景

 その対立が明確に出てきたのは、イギリス植民地支配が「分割統治」策をとったこと関係が強い。インド大反乱の後、インド人の民族意識が高まることを恐れたイギリスは、まずインド国民会議を組織させてその懐柔をはかったが、1905年のベンガル分割令で反英的になると、今度はイギリスはヒンドゥー教徒が主体だった国民会議派に対抗させる形で翌年の全インド=イスラム連盟の結成を促した。こうして同じインド人の中に宗教の違いによる政治勢力がうまれることとなった。ムスリム側はイギリスに対して中央参事会と地方議会選挙での分離選挙(ムスリムだけの選挙区を設けること)を要求、イギリスもそれを認めた。ヒンドゥー教徒はイギリスと結ぶムスリムに反発し、「牛保護」運動を起こし、ムスリムが牛を屠殺していることに抗議した。このようにコミュナリズムは、インドの反英闘争(20世紀)に大きな影を落とすこととなった。

ヒラーファト運動での協力

 イギリスがヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用使用としたことに対して、第一次世界大戦後、ローラット法反対運動を機に第1次非暴力・不服従運動を開始したヒンドゥー教徒のガンディーは両宗派の協力を呼びかけた。おりからムスリムはヒラーファト運動(オスマン帝国のカリフを支援する運動)を開始、ガンディーもそれを全面的に支援して、イギリスという共通の相手に対して協力して闘う関係を作りあげた。しかしトルコ革命によってカリフ制廃止となったため運動は下火となり、次第に社会的立場の違い、地域的対立などが表面化して、1922年以降は協力関係が崩れてしまった。

対立の激化

 その後はそれぞれ他宗派を批判、攻撃する事態となった。インド国民会議派はヒンドゥー教徒が多かったが政治的には世俗化を主張していたのに対して、ヒンドゥー連盟(1915年に結成。後にヒンドゥー=マハーサバーに改称し、明確なヒンドゥー=ナショナリズムを主張するようになる)のサーヴァカルらがガンディーとは一線を画してヒンドゥー教徒の自覚を促し、ムスリムに対する不寛容を主張した。またヒラーファト運動ではガンディーらに主導権を握られていた全インド=ムスリム連盟は、その運動が衰えるとヒンドゥー教徒に対しても聖戦を行うべきであるという勢力が台頭した。このような対立から、20年代にいくつかの痛ましい衝突事件が起こった。1924年にはコハットでムスリムがヒンドゥー教徒を襲撃、155名が殺害されるという事件が起こり、ガンディーは事件を悲しんで21日間の断食を行った。

分離選挙制度

 1930年代のガンディーらの第2次非暴力・不服従運動にたいしてムスリム側は非協力であった。イギリスは国民会議派が完全自治を要求すると、それを抑えるため英印円卓会議でムスリムと不可触民(代表がアンベードカル)の要求を容れて議会選挙での分離選挙(1919年インド統治法で中央と地方に、権限は不十分であったが議会が設けられていた)を認めた。これはヒンドゥー教徒・ムスリム・その他の宗教の信徒、それ以外に不可触民などの社会集団(コミュナル)ごとに議席数を割り振るというもので、まさにコミュナリズム問題を固定化するものであった。ガンディーは特に不可触民の分離選挙に強く反対し、無期限の断食を決行、アンベードカルが妥協して撤回した。しかし、宗派別の分離選挙はムスリムの主張によって導入され、これが後の分離独立の前提となってしまう。

国民会議派の与党化

 1935年の新インド統治法は地方政府のインド人自治を認め、それに基づいて1937年に選挙が行われた。その結果、11州のうち7州では国民会議派単独政権、2州では国民会議派を主とする連立政権が成立し、ムスリム連盟はパンジャーブとベンガルで連立政権に参加する得票を得たにとどまった。このように、地方政治での自治が認められた結果、国民会議派が与党化したため、少数派のムスリム連盟は「ヒンドゥー支配体制」に置かれることを強く警戒するようになった。また、ヒンドゥー教徒の中には世俗化を進める国民会議派に反発してヒンドゥー至上主義を掲げてムスリムとの対決を強めようという勢力も台頭した。

第二次世界大戦期の両派対立

 ファシズムの台頭と第二次世界大戦はインドにも複雑な影響を及ぼした。大戦が始まるとガンディーの指導する国民会議派が即時独立を要求してたのに対して、ムスリム連盟はイギリス支持を表明した。ムスリム連盟の指導者ジンナーは「二民族論」を提唱し、インドは宗教別に二つの民族からなっているのであり、二つの国家として独立すべきであると初めて提唱し、1940年のムスリム連盟大会で「パキスタン決議」をだしてムスリム国家として独立をめざすことを明らかにした。これによって明確な分離路線が生まれ、ガンディーはなおも両宗教の和解を模索したが復旧は困難な情勢となった。1942年に日本の脅威が及ぶと、ガンディーはイギリスに対し「インドから立ち去れ」運動を開始したが、ムスリム連盟はそれに反対した。

インドとパキスタンの分離独立

 1947年に労働党アトリー内閣は、インドとパキスタンの分離独立を決断して7月にインド独立法を制定、それによって最終的にインドは分離独立することとなり、ヒンドゥー教徒主体のインドと、イスラーム教徒主体のパキスタンが成立した。コミュナリズム問題は結局、インド民族を二つの国家に分断するという、最悪の状況に追い込んだと言えよう。
 分離独立に当たって、両宗派が混在していた地域では多くの衝突が発生し、それぞれの国家へ移動していくという悲劇が展開された。その悲劇は、ガンディー個人にも及んだ。ガンディーはインド連邦の独立式典に参加せず、一人ベンガルの村々でイスラーム教徒に和解を解いて歩いていたのである。そして1948年、そのガンディーの姿勢がイスラーム教徒に対して寛容に過ぎると憤った狂信的なヒンドゥー教徒によってガンディーは暗殺されてしまった。

インド=パキスタンの戦争

 1947年、両国はカシミール帰属問題で早くも衝突した。インド北西部の山岳地帯カシミール地方は半独立の藩王国が納めていたが、藩王はヒンドゥー教徒であるのに、住民の大部分はイスラーム教徒というところだった。藩王がインド帰属を進め用とするのに対し、住民はパキスタン帰属を主張したため、衝突が起こり、独立したばかりのインドとパキスタンがそれぞれ軍隊を派遣して前面衝突、第1次インド=パキスタン戦争(カシミール戦争)が勃発した。その後も1965年に第2次の紛争となり、国際連合の調停によって停戦した。国連の調停は住民投票による帰属問題の決着であったが、インドはそれに従わず、領土問題は棚上げにされ、停戦ラインでそれぞれの実効支配を分けている。さらにカシミール北部国境では中国も領有権を主張し、カシミール問題は現在も未解決の領土問題として存続している。特にインドのジャンム=カシミール州はインドで唯一のイスラーム教徒が多数を占める州として、住民の反インド暴動が頻発しており、インド・パキスタン両国はインドの核実験とそれに対抗したパキスタンの核実験を行うところまで進み、深刻化している。

それぞれの原理主義の台頭

 またインドでは戦後の国民会議派の長期政権が世俗化を進めるなかで精神性を失い、不正や貧困が蔓延したことに対する不満を背景として1980年代にヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)が若い世代を中心に台頭した。それはアラブ世界を中心としたイスラーム原理主義の台頭にも刺激されたもので、両者が混在する地域(北インドには今も多くのムスリムが生活している)では、ヒンドゥー教徒がイスラーム教徒を「ブタ!」と罵ったことから大紛争が起こったりする。
 ヒンドゥー至上主義の拡大を背景に、インド人民党が過激なムスリム排撃を唱えて台頭した。その勢力は1992年には北インドのアヨーディヤにムガル帝国時代に建設されたイスラーム教のモスクを破壊して、それがもとで両派が衝突し、千人以上の死傷者がでている。この事件はインドにおけるヒンドゥー=ナショナリズムの台頭として世界の注目を浴びた。インド人民党は、国民会議派によるインド政治の腐敗や停滞、インディラ=ガンディーからラジブ=ガンディーへの政権たらい回しに不満を持つ民衆の心を捕らえて支持を拡大、1998年には第一党となり、政権交代を実現させた。しかしこのもとで、公然とムスリムへの迫害が行われたため、穏健なヒンドゥー教徒もインド人民党支持を離れ、2004年の総選挙では国民会議派が返り咲いた。

両宗教の相違点

 ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との相違点、対立点をまとめると次のようなことがある。
  1. ヒンドゥー教は多神教的性格が強いのに対しイスラーム教はアッラーを唯一絶対の神とする一神教である。
  2. ヒンドゥー教は神々の像を崇拝するがイスラーム教はそれを偶像崇拝として非難し、ヒンドゥー寺院の神像を破壊してきた。
  3. ヒンドゥー教徒にとってはイスラーム教徒は侵略者であり征服者である。しかしムスリムはインドにおいては少数者である。
  4. 音楽を用いるヒンドゥ教徒の礼拝様式は静粛を旨とするムスリムには騒音としか思えない。
  5. ヒンドゥー教徒が神聖視する牛をムスリムは食用とし、ムスリムが嫌う豚肉を食うヒンドゥー教徒がいる。
  6. ヒンドゥー教徒は火葬をせずガンジス川などで遺骨を流すが、イスラーム教徒は火葬は許されず土葬でなければならない、など。
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ノートの参照
第15章3節 エ.インドでの民族運動の展開
第16章1節 エ.南アジア・アラブ世界の自立
書籍案内

中島岳志
『ヒンドゥー・ナショナリズム―印パ緊張の背景』
2002 中公新書ラクレ