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分割統治

古代ローマがイタリア半島の被征服都市を統治した方式。他にもイギリスのインド統治などでも見られた。

 ローマ半島統一戦争で服属させたイタリア半島内の都市に対し、一律に支配するのではなく、与える自治権、市民権の程度によって、植民市自治市同盟市の三種類に分けて支配し、さらに都市間の関係を認めず個別支配をした統治形態を分割統治という。

都市間に格差を設ける

 ローマ市民権はギリシアの市民権と違って、ローマの征服地にも拡大されていったが、その付与に当たって格差が設けられた。都市間に格差を設けたのは、共通の利害をもたせないための工夫であり、「分割して統治せよ」というい考えに基づいていた。三種類の都市の市民権・自治権の格差は次のようにまとめることが出来る。
  • 植民市:市民権はローマ人と同等に認められたが、自治権は認められなかった。ローマ市民のみが入植したローマ市民植民市とラテン諸都市出身者の入植したラテン植民市とに区分される。
  • 自治市:ローマに併合されて自治権を認められた。市民権は民法面が認められる(上層市民のみ)。軍事・裁判を除き自治権を認められた。ただし「完全な市民権」を与えられた自治市と、「投票権のない市民権」を与えられた自治市に区分される。
  • 同盟市:市民権、自治権のいずれも認められず、ローマの同盟都市のままとされた都市。理論的には独立国だが、領土の一部を割譲され、独立した対外政策を持つことができず、ローマ軍を補助するための兵力供出を義務づけられた。

都市間の関係は認めない

 また、服属都市はそれぞれローマとの個別の条約を締結して政治関係を持つことのみが認められ、都市相互間の関係は一切許されなかった。

帝国主義時代の植民地経営にも影響

 この分割統治という統治方法は、広大な領土を持つ帝国においてたびたび用いられた。また後にはイギリスは植民地インド統治において分割統治によって現地人の反植民地運動の一本化を阻害しようとした。

イギリスのインド統治での分割統治

イギリスが古代ローマに倣って植民地インドの統治に適用した政策。民族間、宗教間、カースト間の対立を利用した。

 分割統治は、古代のローマが地中海世界を支配した際、征服した都市に対して個別に同盟関係を結んで、横に連携してローマに対抗出来ないようにした統治法を言うが、この場合はイギリスのインド植民地支配において、主としてヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、個別に対応することによって独立運動を妨害しようとした政策のことをいう。それ以外にも藩王国間の対立や、カースト間の対立をあおることも分割統治の内容であった。

藩王国間の分割統治

 イギリスは武力でインド植民地化を進めたが、1857年のインド大反乱はヒンドゥー教徒とムスリムが共にイギリスに反抗して起こったものだった。その反乱を鎮圧したイギリスは直接支配下地域以外では藩王国の自治を認めて個別の協定を結んで分割統治を進めた。

コミュナリズム

 インド固有の宗教ヒンドゥー教に対して、外来の宗教イスラーム教が征服者の宗教として入ってきたことから、インドでは一貫して宗教対立が続いていたと考えられがちであるが、ムガル帝国の17世紀までは融和策もあって、村落社会内部では多数をしめるヒンドゥー教徒と少数者であるイスラーム教徒(ムスリム)は共存していた。インドにおけるヒンドゥーとイスラームの対立コミュナリズム問題という)が深刻になっていくのは、むしろイギリスが宗教対立をあおった結果と見ることもできる。

宗教による分割統治

 ムガル帝国滅亡によって、それまで支配者であったムスリムは単なる少数派に転落したとき、イギリスは多数派であるヒンドゥー教徒を優遇し、その力を利用しようとした。1885年にヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の形成を促したのがそれである。しかしインド内部で反英運動が起こってくると、その力をそぐために、今度は1905年にベンガル分割令を策定、ベンガル地方をヒンドゥー教の多い地域とムスリムの多い地域に分割しようとした。この政策に分割統治の典型が見られる。

カーストによる分割統治

 またイギリスの分割支配の中には、インド人社会のカースト制度およびカーストとアウト=カースト(不可触民ハリジャンともいわれた)の対立を利用する側面もあった。例えば、インドの地方自治を認めたインド統治法でも、不可触民に対してその権利を守るという口実で議席を事前に割り振るという分離選挙制を導入し、その差別を固定化しようとした。イギリスは1930年代の英印円卓会議でこの策を提唱し、ハリジャンの代表アンベードカルは賛成したが、ガンディーはインドの統一ある独立を害するものと強く反発した。

軍隊における分割統治

 インド大反乱に際して、シパーヒーの反乱を鎮圧するために動員されたのは、パンジャーブ地方のシク教から成るシク兵であった。また、インド大反乱以前の東インド会社軍にはインド人兵士約12~13万に対し、イギリス人兵士は約3万にすぎなかったが、反乱後のインド軍はイギリス人兵士を6~7万に倍増するとともに、インド人兵士の各部隊をいろいろな地方の出身者からなる混成部隊として、結集する力を弱めている。20世紀の帝国主義段階となり、インド周辺での軍事的緊張が高まると、それまでの軍隊制度が手直しされ、「戦争種族起用論」が導入された。それは北西辺境州のパシュトゥーン人(イギリス人はパターン人と呼んだ)、パンジャーブのシク、ネパールのグルカが大量に募集された。こうして特定の少数民族、宗教集団、カースト集団が植民地軍隊の構成単位となり、これがイギリスのインド支配の支柱となるとともに、アフガニスタン、チベット、ビルマなどへの遠征軍となった。<小谷汪之・中村平治『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社 p.256,p.272>

分割統治の結果としての分離独立

 さらにそれに対するインド国民会議派の反対運動が強まると、イギリスはムスリムを支援して全インド=ムスリム連盟を結成させた。それ以後、イギリスは両宗派の対立感情を煽りながら、巧妙な分割統治策を進めたのだった。ヒンドゥー教徒であるガンディーは必死にムスリムとの連携と融和をはかったが、特にムスリム側の国民会議主導の統一独立に反発する思想(その代表がジンナー)が次第に台頭し、一本化は困難になっていった。最終的にはイギリスがインドとパキスタンに分離独立させることを条件に独立を認めたため、それまで一体であった「インド」は二つの国家にされてしまった。
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書籍案内

島田誠
『古代ローマの市民社会』
世界史リブレット3
1997 山川出版社
『世界の歴史24 変貌のインド亜大陸』
1978年 講談社