印刷 | 通常画面に戻る |

アンベードカル

インドの不可触民解放運動の指導者。インド独立後、1950年に制定されたインド憲法を起草した。

 ビームラーオ=アンベードカル(1891~1956)はマハールというインド中・西部の不可触民のコミュニティに生まれ、刻苦勉励して、コロンビア大学とロンドン大学の博士号を及び弁護士資格を取得した。幼いときからヒンドゥー教徒からの差別を感じて育った。1920年代後半から不可触民に対する差別に反対する運動が政治問題化したが、アンベードカルはその指導者となり、ガンディーなどのヒンドゥー教徒カースト内の人々の運動である国民会議派に対しても批判的な活動を続けた。インド独立後は法相となり、インド共和国憲法起草委員会委員長としてインド憲法の原案作成に当たった。彼が起草したインド憲法は、1950年に制定された。彼は不可触民差別の根源はヒンドゥー教にあるとして、1956年に数十万の不可触民(マハール)とともに仏教に改宗した。

差別との闘い

 バラモンが権威を持つカースト制度が根強いヒンドゥー社会では、不可触民は触れたり、見るだけで不浄になるとされ、動物の屠殺や清掃などの労働にしかつくことができなかった。また、道路や飲み水も一般カーストのものは使うことができなかった。アンベードカルはそういう差別に敢然と立ち向かい、不可触民に使用を禁じられている道路や貯水池の水の使用を開放せよという反バラモン運動を展開した。1930年にはガンディーの「塩の行進」にあてつけるように「寺院開放運動」を開始した。ヒンドゥー寺院はそれまで境内に不可触民が立ち入ることを禁止していたのである。不可触民は寺院の外から礼拝することだけが許されていた。彼はサティヤーグラハと称して、ナーシクのヒンドゥー寺院を1万5千人の不可触民で囲んで行進した。

アンベードカルの分離選挙要求

(引用)アンベードカルの要求は、今日の言葉でいえば、アファーマティヴ・アクションにつながるものである。すなわち、差別されてきた人々と、有利な状況に置かれてきた人々が、平等の条件で政治的、経済的に競争するといつまでたっても差別はなくならないから、被差別階層の人々に有利な措置を講じよう、というのである。とくに、これからつくられる議会では、不可触民だけが選挙権、被選挙権とも持てるような特別枠を設けよう、という。そうでなければ、不可触民が撰ばれて議員になることはありえない。それが彼の‘分離選挙’の主張であった。<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.177>

アンベードカルとガンディーの対立

 このようなアンベードカルの主張をイギリスは分割統治に利用し、第2回英印円卓会議では分離選挙を認めようとした(マクドナルドのコミュナル裁定)。ガンディーは不可触民に特別枠を認める分離選挙はかえって不可触民に対する差別を固定化することになり、永遠に解決できなくなると考えた。またこのコミュナル裁定ではムスリムにも選挙枠を与えており、要するに「インド社会を宗教や階層によって」12の選挙区に細分する、というもので、これによって各社会集団(コミュニティ)の分離選挙が固定されることになる。
 国民会議派とガンディーは少数派保護の名目でヒンドゥー勢力が多数を占めることをなくそうとする‘分割統治’そのものであると強く反対し、ガンディーは獄中で「死に至るまで」の断食を宣言した。この宣言は国中を震撼させ、アンベードカルに妥協するよう圧力が強まった。4日目にガンディーが急に衰弱し重体に陥ると、ついにアンベードカルは分離選挙の要求を撤回した。結局、アンベードカルとヒンドゥー代表は1932年9月「プネー協定」を結び、分離議席をなくす代わりに不可触民だけが立候補できる議席を設けるが選挙権は他の選挙区と同じくヒンドゥー全体が持つという‘留保議席’を増やすことで妥協が成立した。この件があってガンディーは不可触民の問題の解決がインドにとって最も重要であると認識するようになり、不可触民をハリジャンと呼んでその解放をめざすハリジャン運動を開始する。

Episode ガンディーを動かした言葉

 1931年8月6日、第2回英印円卓会議に出発するまえガンディー(62歳)はアンベードカル(40歳)に会った。そのときアンベードカルは「犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるでしょう、自尊心のある不可触民なら、誰一人としてこの国を誇りに思うものはありません。」と述べた。その言葉はガンディーを激しく撃った。不安を抱きはじめたガンディーに、アンベードカルは分離選挙の提案を語った。それに対してガンディーは「それは明らかに自殺行為です。」と答えた。<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.179-180>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

長崎暢子
『ガンディー』
現代アジアの肖像
1996 岩波書店