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スペイン革命

1931年、スペインでブルボン朝立憲君主制政体が倒れ、ブルジョワ共和政が成立する際に行われた変革。左右両勢力の攻勢によって挫折し、ファシズムが台頭。それに対して左派が人民戦線を結成し、1936年の総選挙で勝利し内閣を成立させた。

選挙で王政が否定される

 スペインのブルボン朝立憲政体は、第一次世界大戦後、プリモ=デ=リベラの独裁が出現して動揺し、国内には共和政を求める声が強くなった。プリモ=デ=リベラの死後に行われた1931年4月12日の地方選挙は、実質的には王政維持か共和政への変革かを問う国民投票の意味があった。結果は都市部での共和政支持が多数であった。それを受けて14日午後、マドリードで共和政が宣言され、共和国の三色旗(赤・黄・紫)が掲げられ、すでに結成されていた王政反対革命委員会はアルフォンソ13世に退位を迫った。その夜、国王は二,三人の従者だけを連れてマドリードの宮殿を出て、カルタヘナからフランスの軍艦でマルセイユに逃れた。こうしてスペイン=ブルボン朝の立憲君主制は終わりを告げた(1975年、フランコ死後に王政復古する)。

第二共和政の成立

 マドリードの革命委員会はアルカラ=サモラを首班とする臨時政府を成立させ、スペイン共和国を成立させた。これは、1873~4年の短命に終わった第一共和政に対して第二共和政といわれる。6月28日、憲法制定議会選出の総選挙が行われ、共和行動党が145、社会党116、急進社会党60など共和派が多数を占め右派はほぼ60議席にとどまった。憲法制定議会が12月までに制定した新憲法は、ヴァイマル憲法に範をとり「スペインは正義と自由の制度に組織されたあらゆる階級の勤労者の民主主義的共和国である」という言葉に始まり、主権在民、戦争の放棄、国家と教会の分離、貴族の廃止、23歳以上の男女普通選挙制度、一院制国会(コルテス)、カタルーニャの自治などを規定していた。12月、大統領には穏健なカトリック教徒で前首相のアルカラ=サモラ、首相には共和行動党のアサーニャを選任した。アサーニャ内閣は共和主義者と穏健社会主義者から構成されていたが、社会主義左派の共産党、さらにトロツキー派や、アナーキストはそれをブルジョワに協力する勢力として批判していた。

共和国の課題

 アサーニャ内閣は当初から困難な課題に直面した。まずプロヌンシアミエント(軍事蜂起宣言)によってたびたびクーデタを起こすやっかいな存在である軍隊組織の改革に当たり、過剰な将校数の削減をめざし、将校に対して共和国に忠誠を誓うか、俸給をそのままで退役するかの選択を迫った。反発した一部の将軍が反乱を計画したが事前に発覚して鎮圧された。
 スペイン年来の課題であった教育を教会から切り離すため、公費での学校建設を進めた。実際に33年までに1万の学校が建設され「学校建設熱の年」と言われた。しかしそのため財政を破綻させ、アサーニャ内閣倒壊の一因ともなった。しかし、下層農民やアナーキストの要求である土地改革、農地解放には取り組みは積極的ではなく、またカタルーニャに対しては自治の範囲にとどめようとし、対等な共和国としての分離に反対した。

恐慌と右派の台頭

 当時、世界恐慌の波がスペインに及んできて、特に農村不況は深刻になっていた。また工場労働者も賃金が上がらず、ストライキが続いていた。下層農民や労働者の間にはアナーキストの影響が強かったが、アナーキストはカトリック教会を標的にたびたび焼き討ちを行ったので、アサーニャ内閣はアナーキストに対して厳しい弾圧を加え逮捕者が続出した。またアナーキストの活動を恐れる地主や資本家や教会は、それに対抗する勢力としてファシストに期待する傾向が強くなり、右派ファシスト勢力も次第に強くなっていった。そのような右派団体にはさまざまなものがあるが、最も有力なものが「ファランヘ・イスパニョーラ」(後のファランヘ党)という、かつての独裁者の息子ホセ=アントニオ=プリモ=デ=リベラが結成した、ナチスのスローガンと運動方針を手本とした政党であった。

共和派の敗北

 1933年11月の総選挙 アサーニャ内閣のスペイン革命の継続を問う形で1933年11月に総選挙が行われた。23歳以上の男女普通選挙であったが、二大政党の安定を図るために非常に複雑な仕組みになっていたが、結果は右翼の勝利で共和派敗退した。一方、共産党が投票数では増加した。この選挙で共和派が敗れたのは、新たに選挙権が与えられた女性の票が保守に流れたためで、新憲法の男女平等選挙権が裏目に出た格好であった。女性は新憲法が宗教を冒涜するものだという宣伝に動かされのだが、アサーニャはスペイン農村のカシケの力がまだ強いことを嘆いた。もう一つの理由はアナーキストの選挙ボイコットであった。アナーキストは議会制を否定し、選挙に意義も認めず、選挙よりも革命を、と宣伝した。

暗い二年間

 こうしてアサーニャ内閣は退陣し、1934~35年の「暗い二年間」といわれる反動期となった。替わった右派内閣にはファシストも入閣し、共産党やアナーキストに対してだけでなく、社会主義者や共和主義者にも弾圧が及んでいった。それに対して左派の指導者ラルゴ=カバリェロは左派労働組合の統一を図り、労働者同盟を結成した。共産党も「統一戦線」を提唱し、同盟に参加した。しかしアナーキスト系のCNTは参加を拒否した。ファシストと左派労働者の対立は次第に武装対立の様相を呈してきた。各地で起こったファシストと労働者の対立の中でもっとも先鋭なものが、スペイン北部の先進的鉱工業地帯であるアストゥリアス地方で起こった。

アストゥリアス蜂起

 1934年10月、アストウリアスの労働者は「プロレタリア兄弟の団結(UHP)」を合い言葉に、ファシストの暴力に対抗してゼネストに入り、自発的に武装蜂起し、オビエドを中心に鉱山や工場を占拠し、コミューンを作り上げた。武装した労働者は警察や兵舎をダイナマイトで襲撃し、地域の治安を掌握し、工場生産、交通、食料品の配給、土地の配分などを自主的に行っていった。アストウリアス=コミューンは約2週間にわたって維持されていたが、それに対して政府はフランコ将軍らの提案に従い、植民地モロッコからムーア人部隊を投入し、この「外人部隊」によってアストゥリアスの労働者、その家族が機関銃で掃射され、血なまぐさく殺害された。 → スペイン人民戦線の成立
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ノートの参照
第15章4節 イ.ニューディールとブロック経済
第15章4節 カ.ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成
書籍案内
スペイン戦争
斎藤孝
『スペイン戦争
―ファシズムと人民戦線』
1966年 中公新書