印刷 | 通常画面に戻る |

ヴァイマル憲法/ワイマール憲法

1919年ドイツ共和国(ヴァイマル共和国)で制定された民主的な憲法。当時もっとも先進的な人権規定をもっていたが、ナチズムの台頭によって1930年代初頭に消滅した。

 1919年に制定された第一次世界大戦後のドイツ共和国ヴァイマル共和国)の憲法。当時世界でもっとも民主主義的な憲法であった。

制定

 1919年、スパルタクス団の蜂起の直後の選挙によって成立した国民議会は2月6日にヴァイマル(ワイマールとも表記)で開催された。社会民主党は単独で過半数が取れず、中央党・民主党など中道政党と連立政府を作った。臨時大統領には社会民主党エーベルトを選出、7月31日に新憲法が制定され、いわゆるヴァイマル共和国が成立した。

内容

 重要なポイントは次のような規定である。当時においてはもっとも民主的な内容であったが、左右両派からはそれぞれ不満が大きかった。
・共和制と主権在民、男女平等の普通選挙。議院内閣制。(国民議会はもとの名称の「国会」にもどす。)
 第1条 ドイツ共和国(ライヒ)は共和国である。国家権力は国民に由来する。
 第20条 ライヒ議会はドイツ国民の選出する議員で構成される。
 第21条 議員は、普通、平等、直接および秘密の選挙において、比例代表の諸原則に従い、満20歳以上の男女によって選出される。
・従来と同じ連邦制をとるが、直接税を中央政府に移す。
 =中央集権化を強化した。プロイセンは分割されず、全国の5分の3をしめ、その優位性を保った。
・大統領は任期7年、直接人民投票によって選出、非常に大きな権限を与えた。
 第48条 ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、ライヒ大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。この目的のために、ライヒ大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。
・所有権は保護されるが、公共の福祉のためにはそれが制限され得ることを認めた。
・経済活動の自由の規定とともに、労働者の団結権、団体交渉権を認めた。
 第151条 経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目ざす、正義の諸原則に適合するものでなければならない。(中略)
 第153条 所有権は憲法により保障される。……所有権は義務を伴う。その行使は同時に公共の福祉に役立つものであるべきである。(中略)
 第159条 労働条件と経済条件の維持と改善とを目ざす団結の自由は、あらゆる人々とあらゆる職業に対して保障される。(後略)
・その他、労働者に賃金や労働条件の決定に参加する権利を認めた。(そのための労使協議の機関が地域や中央に設けられた。)また、社会政策や社会化に関する法律を審議する「全国経済会議」が設置された。

ヴァイマル憲法の意義

 ドイツで初めて君主政を廃止し、共和政を規定した憲法であり、男女の普通選挙による議会政治、国民の直接選挙で選ばれる大統領制にくわえ、世界で最初に労働者の団結権などの社会権の保障を明記した。当時における、世界で最も民主的に進んだ憲法であった。

問題点

小党分立状態が出現 選挙の比例代表制はより民意を反映させる民主的な制度と考えられたが、かえって小党分立状態による政党政治の混乱を生みだし、ナチスの台頭を許したと考えられている。
大統領の緊急命令権 大統領は国民が直接選挙で選び任期も7年に限定されていたが、有名な第48条で公共の秩序回復のためには武力行使を含めて緊急手段をとることが認められ、その際には基本的人権に関する諸規定を一時停止する事もできた。ヒンデンブルク大統領はこの緊急命令権を乱発した。また1933年に首相に任命されたヒトラーもこの大統領緊急命令権と議会解散権を利用して独裁体制を握ることになった。この規定がナチズムの台頭を許す要因の一つとなった。

ヴァイマル憲法の消滅

 世界恐慌のドイツへの波及による失業者の増大という社会不安を背景にして、1930年にヒトラーの指導するナチ党が急速に台頭した。ヒトラーはヴェルサイユ体制の打倒と共に、ヴァイマル憲法のもとでの議会政治を全面的に否定し、議会に拘束されない強力な国家指導者による危機の打破を唱え、また共産党やユダヤ人を社会秩序の破壊者と攻撃して国民の不安をあおっていた。結果的にヒトラー政権の成立によってヴァイマル憲法は葬り去られるが、それ以前にすでに自壊が始まっていた。
議院内閣制の停止 1930年、ヒンデンブルク大統領は社会民主党内閣が世界恐慌に対応できずに辞任した後、議会内少数派の保守派のブリューニングを大統領緊急命令権によって首相に任命した。この大統領緊急命令はヴァイマル憲法の規定に従ったものであるが、これによって議院内閣制は停止された。憲法に従って憲法の一部を停止してしまったわけである。その後、短命内閣が続くとヒンデンブルクは、1932年選挙で第1党となり、11月の選挙でも第一党を維持(過半数ではなかった)したナチ党のヒトラーに対し、1933年1月に組閣を命じヒトラー内閣が成立した。
基本的人権の停止 政権を獲得したヒトラーは直後の2月27日の国会議事堂放火事件を口実に、28日、ヒンデンブルク大統領名の「人民と国家防衛のための」緊急令を発布、即日発効させ、「憲法第48条第2項に基づき、国家を危うくする共産主義の暴力行為に対する防衛のため」に憲法に定めた人権保証規定を棚上げした。これによって個人の自由、言論・出版の自由、結社・集会の自由は制限され、通信の秘密の侵害、家宅捜索や押収、個人財産の制限などが可能とされた。ヴァイマル憲法の最も優れた点であった基本的人権規定がここに制限されることになった。
議会制民主主義の停止 3月の総選挙後の国会ではナチ党は第一党にはなったが、単独過半数ではなかった。そこでもう一つの右翼政党ドイツ国家人民党との連立とし、二つの与党で過半数を確保した。その国家で、ヒトラー内閣は政府が議会の決議無しに法律を制定できるという全権委任法を提案した。反対党の共産党は81議席を占めていたが、国会放火事件を口実に議員活動は停止されていた。最大の反ナチ勢力の社会民主党に対しても弾圧の手が伸び、大半が逮捕されたり活動停止に追い込まれていた。中間的なカトリック政党中央党は、ヒトラーの弾圧を恐れて賛成した。こうして国会そのものが、国会の立法権を否定するという、いわば自殺法案が成立してしまった。ヒトラーの議会テロと言われる行為に屈したのだった。
大統領制の停止 さらに翌1934年、ヒンデンブルク大統領の死去によってヒトラーは首相兼大統領の権限をもつ総統(フューラー)に就任した。これによって国民が国家元首を直接選挙で選出する大統領制は消滅した。これ以後はドイツ共和国は実態がなくなり、総統国家、あるいはナチス=ドイツ(第三帝国)といわれる独裁体制に移行した。
 ワイマール憲法と第二次世界大戦後の西ドイツ基本法の比較