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マラヤ連邦

1957年、イギリスから独立したマレー半島の国家。マレー人、中国系、インド系の三民族からなる。1963年にマレーシア連邦となるが、65年にシンガポールが分離独立した。

 1957年、イギリス領マラヤが独立した国家。「マラヤ」という呼称は、イギリス植民地下のマレー半島の、原住民としてのマレー人と、中国系の華人、さらにインド人という三つの人種を越えた、新たな独立した統一国家を形成する国民という意味で用いられた。マラヤ連邦の独立は、三つの民族の妥協によって成立した面があり、「国民無き国家」などとも言われることがあり、現在でも複雑な民族問題を抱えている。マラヤ連邦は1963年にシンガポールとボルネオ島の二州(サラワクとサバ)が加わってマレーシア連邦へと版図を拡大した。しかし、中国系住民の多いシンガポールはマレーシア連邦のマレー人優勢に反発して、1965年に分離した。

独立の経緯とマレーシアの民族問題

 1945年8月15日に日本軍が降伏してから、9月にイギリス軍が進駐してくるまで、実質的にマレー半島を管理したのは華人の抗日人民軍であった。日本軍政下で大虐殺の犠牲となった華人は、戦後になると日本軍に協力したマレー人に対する報復する暴動を起こした。一方イギリスは、1941年の大西洋憲章で戦後の民族独立を約束しながら、マレー半島はすぐには手放そうとしなかった。イギリスは独立に替わって、シンガポールを分離し、その他を連合州としてイギリス人総督が統治するマラヤ連合案を提示したが、1万人のマラヤ人(マレー人だけでなく華人やインド人を含んだ植民地人を総称するときに使用する)がデモを行って反発した。マレー系はマラヤ人の結束を訴え、46年5月に統一マラヤ国民組織(UMNO)を組織、それに対抗して華人はマラヤ華人協会(MCA)を、インド人はマラヤ・インド人会議(MIC)を組織し、独立運動は三つどもえとなった。三すくみとなった三つの人種組織は、共産党の武装蜂起が起きたのを期に結束して、1957年にマラヤ連邦を成立させた。マレー系の旧支配階層はイスラーム教を国教とし、旧小首長国のスルタンが交互に国家元首となると言う妥協案で満足した。しかしマレー系原住民は半島の東部の農村部に多く、貧しい。華人とインド人は半島西部の商業や工業地帯に多く、豊かであり、官僚層を占めている。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.310-313 などによる>
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第16章1節 エ.南アジア・アラブ世界の自立
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マラッカ物語表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社