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シンガポール

マレー半島先端にある島。1824年からイギリス殖民地支配の拠点とされ、第一次大戦後に独立する。

 マレー半島の最南端に位置する交通の要地。ジョホール水道をへだてて陸地に近い一つの島で、面積はほぼ淡路島ぐらい。イギリスの植民地行政官のラッフルズが1819年に現地を支配するジョホール王国のスルタンから、この地に商館を建設することを認めさせた。ラッフルズが上陸したときのシンガポールは人口300ほどの貧しい漁村だったという<鶴見良行『マラッカ物語』 p.179>
 さらに1823年には土地割譲させ、24年に正式にイギリス領となった。ラッフルズは、この地に「商業の自由」の原則に立った自由港を建設した。これを機にシンガポールは急速に発展、中国系(華僑)商人やインド人労働力が多数流入し、一大都市となった。1826年にはペナン、マラッカと共にイギリスの海峡植民地の一部となり、マラッカ海峡を抑え、イギリスのアジア進出の拠点となった。

シンガポール 日本軍の占領

太平洋戦が開始され、イギリス拠点のこの地は日本軍の目標となり、1942年2月15日、占領された。抵抗した華僑が多数虐殺された。

日本軍のシンガポール軍政

 日本軍は蔣介石政権=国民政府とつながる存在として華人たちを警戒の目でみており、「華僑に対しては、蔣介石政権より離反し、わが政策に協力同調せしむものとす」(実施要領)としていた。シンガポール攻防戦で、華人の義勇軍がもっとも勇敢に戦ったことは著名であり、日本軍のシンガポール入城後の華人虐殺事件はそれが遠因であったといわれる。協力の証として求めたのは資金供出であり、シンガポールを中心とするマラヤの華人に対して、5000万ドルの日本軍への寄付が強要された。華人たちは土地を売り、借金をして集めたが2800万史家集まらず、不足額は横浜正金銀行から華僑協会に貸し付け、その結果、5000万ドルの小切手が山下奉文軍司令官に「奉呈」された。<小林英夫『日本軍政下のアジア』1993 岩波新書 p.126>

華僑虐殺事件

 華僑が人口の多数を占めるシンガポールでは、抗日意識が強く、中国への献金ばかりでなく、日本軍の後方攪乱などを行った。日本軍はシンガポール占領後、「抗日」華僑7万余を検挙し、数千あるいは数万といわれる多数を処刑した。その処刑の仕方も残虐な手段がとられた。おびただしい多数の人々について短時間に正確な有罪の認定のできたはずがなく、報復的な大量虐殺という非難は免れない。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.214>

シンガポールの独立

 シンガポールは1963年、マラヤ連邦ボルネオの二州(サラワクとサバ)とともに、マレーシア連邦の一員として独立した。
 しかし民族構成などの違いから連邦内で対立し、1965年、マレーシア連邦から分離し、シンガポールとして独立した。
 1968年にはイギリスのウィルソン内閣が、スエズ以東からの撤兵を表明、それに従って1971年までにシンガポールからもイギリス軍が撤退した。  → 現在のシンガポール
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争
第16章1節 エ.南アジア・アラブ世界の自立
書籍案内
マラッカ物語 表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社

家永三郎
『太平洋戦争』
1986 岩波書店