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シンガポール

マレー半島先端にある島。1824年からイギリス殖民地支配の拠点とされ、第二次大戦後の1963年にマレーシア連邦の一部として独立したが、65年に分離独立した。

 マレー半島の最南端に位置する交通の要地。ジョホール水道をへだてて陸地に近い一つの島で、面積はほぼ淡路島ぐらい。イギリスの植民地行政官のラッフルズが1819年に現地を支配するジョホール王国のスルタンから、この地に商館を建設することを認めさせた。ラッフルズが上陸したときのシンガポールは人口300ほどの貧しい漁村だったという<鶴見良行『マラッカ物語』 p.179>
 さらに1823年には土地割譲させ、24年に正式にイギリス領となった。ラッフルズは、この地に「商業の自由」の原則に立った自由港を建設した。これを機にシンガポールは急速に発展、中国系(華僑)商人やインド人労働力が多数流入し、一大都市となった。1826年にはペナン、マラッカと共にイギリスの海峡植民地の一部となり、マラッカ海峡を抑え、イギリスのアジア進出の拠点となった。

シンガポール 日本軍の占領

太平洋戦が開始され、イギリス拠点のこの地は日本軍の目標となり、1942年2月15日、占領された。抵抗した華僑が多数虐殺された。

日本軍のシンガポール軍政

 日本軍は蔣介石政権=国民政府とつながる存在として華人たちを警戒の目でみており、「華僑に対しては、蔣介石政権より離反し、わが政策に協力同調せしむものとす」(実施要領)としていた。シンガポール攻防戦で、華人の義勇軍がもっとも勇敢に戦ったことは著名であり、日本軍のシンガポール入城後の華人虐殺事件はそれが遠因であったといわれる。協力の証として求めたのは資金供出であり、シンガポールを中心とするマラヤの華人に対して、5000万ドルの日本軍への寄付が強要された。華人たちは土地を売り、借金をして集めたが2800万史家集まらず、不足額は横浜正金銀行から華僑協会に貸し付け、その結果、5000万ドルの小切手が山下奉文軍司令官に「奉呈」された。<小林英夫『日本軍政下のアジア』1993 岩波新書 p.126>

華僑虐殺事件

 華僑が人口の多数を占めるシンガポールでは、抗日意識が強く、中国への献金ばかりでなく、日本軍の後方攪乱などを行った。日本軍はシンガポール占領後、「抗日」華僑7万余を検挙し、数千あるいは数万といわれる多数を処刑した。その処刑の仕方も残虐な手段がとられた。おびただしい多数の人々について短時間に正確な有罪の認定のできたはずがなく、報復的な大量虐殺という非難は免れない。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.214>

シンガポールの独立


シンガポールの国旗
 シンガポールは1963年、マラヤ連邦ボルネオの二州(サラワクとサバ)とともに、マレーシア連邦の一員として独立した。
 独立を主導したのは、シンガポールのイギリス連邦自治州首相であったリー=クアンユーであった。しかし、マレー系が多数を占める旧マラヤ連邦に対し、シンガポールは圧倒的に中国系(華僑)が多数を占めていたシンガポールは、民族構成などの違いから連邦内で対立し、1965年、マレーシア連邦から分離し、シンガポールとして独立した。
 1968年にはイギリスのウィルソン内閣が、スエズ以東からの撤兵を表明、それに従って1971年までにシンガポールからもイギリス軍が撤退した。

リー=クアンユーの政策

 リー=クアンユーは、シンガポールの旧日本軍の占領期に少年・青年期を過ごし、イギリス・ケンブリッジ大学を卒業。1954年に人民行動党(PAP)を結成、独立運動を指導した。独立後はPAPの一党支配体制を確立、多数派の華人に、マレー系、インド系からなる多民族国家をまとめるため、他民族の母語を公用語として認める一方、共通語として学校教育をすべて英語で行う言語政策を進めた。
 また、東京23区より一回り広いだけの島国シンガポールで、資源もないことから、外国資本の誘致による工業化政策を主導した。魅力的な税優遇などで投資環境を整備。海外の有能な人材を引きつけることで、アジア有数の金融センターの構築にも成功した。これによってシンガポールは一人あたり国内総生産(GDP)で日本をしのぐ土台を築いた。
 外交面では、中国の鄧小平とも人脈を築き、93年に初の中国・台湾民間交流窓口機関のトップ会談をシンガポールで実現させるなど、中国と台湾の仲介役としても活躍した。
 リー=クアンユーは、シンガポールの経済開発を最優先し、異論を許さない政治手法は「独裁」との批判を浴びることはあったが、資源の少ない小国で急成長を実現したことから「建国の父」と呼ばれている。2015年3月23日、91歳で死去した。<朝日新聞 2015年3月23日夕刊を再構成>
 他の開発独裁の多くが、大衆の生活を犠牲にしたことから反発を受けて途中で倒されたのに比べて、リー=クアンユーが「建国の父」としたわれながら、しかも高い国際的な評価を維持して天寿を全うしたことは希有なことである。しかし、その長男のリー=シェンロンが首相をつとめるなど、一族政治の傾向はその死後に明らかになっており、その弊害が出始めているとも言われている。
アジア四小龍 1960年代から1990年代にかけて、アジアで著しい経済成長を遂げた香港、シンガポール、台湾韓国は「アジア四小龍」Four Asian Tigers と言われた。この四国(地域)は、いずれも自前の資源には恵まれないものの、外国資本を税制優遇などで巧みに導入し、市場経済原理を徹底し、金融や技術の開発に成功し、60年代まで世界をリードした高度経済成長期の日本に代わって世界史上に大きな地位を占めることとなった。香港と台湾は中国との関係という国家主権に関わる問題を抱え、韓国は北朝鮮との軍事的対立とそのことを背景とした政治不安を抱えているのにくらべ、シンガポールはリー=クアンユー政権の下、最も安定した成長を遂げた。<エズラ=フォーゲル『アジア四小龍- いかにして今日を築いたか』1991年 中公新書>
 現在のアジア四小龍は、国際的な金融センターとして特化した香港とシンガポールと、電気器機・IT技術に特化した台湾と韓国、というような違いがはっきりしてきている。
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争
第16章1節 エ.南アジア・アラブ世界の自立
書籍案内
マラッカ物語 表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社

家永三郎
『太平洋戦争』
1986 岩波書店