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ベルリンの壁

西ドイツへの亡命の増加を抑えるため、1961年に東ドイツが東西ベルリンの境界線に壁を築いた。長く東西冷戦の象徴とされたが、1989年に市民の手によって開放された。

 1961年8月、市民の西ベルリンへの脱出を防止するため、ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が東西ベルリンの周囲に築いた防壁。東西冷戦の中で米ソの平和共存に脅威となった。東西ドイツの分離以来、戦後の東西冷戦の中でベルリン問題は最も厳しい対立点であり、武力衝突、ひいては第三次世界大戦への導火線となりかねない危機をはらんでいた。

米ソ交渉の決裂

 東西対立そのものは、ソ連のスターリンの死去以来、雪解けムードが始まり、ソ連とアメリカの両国とも相手との対話を探ろうという平和共存路線をとるようになっていたので、1961年6月、ベルリン問題に関してウィーンでケネディ大統領フルシチョフの直接協議の場が設けられた。この画期的な両国首脳の会談で問題解決の糸口が見つかるのではないか、という期待が膨らんだが、両首脳とも妥協を拒んだため、協議は決裂に終わった。

西への亡命者の急増

 ウィーンの米ソ首脳会談の決裂は核戦争に対する世界の危機を強めるとともに、統一を望む東ドイツ市民に失望と不安が広がり、西ベルリンに脱出する人が激増しはじめた。またその背景の一つには、東ドイツ政府がソ連に倣った農村集団化を強行し、農民が不安を強めていたこともあった。61年8月、東ドイツ当局は東ベルリン市民の出国を禁止し、境界線に鉄条網とバリケードを築き、続いて14日正午には象徴的なブランデンブルク門を閉鎖し、東西ベルリンの交通は遮断された。これ以後、東ドイツ脱出の企ては、鉄条網を越える命がけの行為となる。

壁の犠牲者

 8月24日、ベルリンの壁で初の犠牲者が出た。それ以後、1989年に壁が撤去されるまでに約200人が脱出を試みて東ドイツ警察に射殺されたという。このベルリン危機は翌年のキューバ危機とともに平和共存路線にとっての大きな脅威となった。 → ベルリンの壁の開放 
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ノートの参照
第16章2節 イ.雪解けと平和共存