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ベルリン

ブランデンブルク辺境伯の拠点として始まり、ドイツの首都として繁栄する。

 1134年、アウカニア家のアルプレヒト熊公がブランデンブルク辺境伯に封じられベルリンをその拠点としたことに始まる。つまり、ベルリンの起源は古代にさかのぼらず、中世に始まり、近代に政治都市として発展した都市である。その後1470年からはブランデンブルク選帝侯国の都となった。

ユグノーの移住

 1685年、フランスのルイ14世ナントの王令の廃止を打ち出すと、ブランデンブルク=プロイセンフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯はいわゆる「ポツダム勅令」を発して、亡命ユグノー(新教徒)の受け入れを表明した。それによって実際多数のフランス人ユグノーが移住し、彼らと共に優れた手工業技術が移入されることになった。首都ベルリンの当時の人口の3分の1はこれらフランス系ユグノーといわれ、彼らの活動によって産業、経済が発展し、それに伴って道路や港湾も整備され、海外との交易も始まり、ベルリンは本格的な貿易の都、商業都市への脱皮した。<マンフレッド・マイ/小杉尅次訳『50のドラマで知るドイツの歴史』2003 ミネルヴァ書房 p.120>

プロイセンの都

 1701年からはプロイセン王国が成立するとその首都として栄えた。啓蒙専制君主としてフリードリヒ2世はベルリンの首都としての機能を強めながら、ベルリンの南西郊外のポツダムにサンスーシ宮殿を造営した。
 ナポレオン戦争では、プロイセンが1806年のイエナの戦いに敗れて、ナポレオンがベルリンに入城し、大陸封鎖令(ベルリン勅令)が出された。
 ナポレオンとの戦いに敗れたことから、プロイセンではプロイセン改革の気運が高まり、それはドイツ統一運動の出発点とも成った。自由主義とナショナリズムの高揚した1848年のフランスの二月革命に始まる一連の動きはベルリンにも飛び火し、三月革命が勃発した。しかし、ドイツ統一国家の建設は、プロイセンとオーストリアの対立で実現せず、次第にプロイセンによるオーストリア抜きのドイツ統一が進むこととなる。

ドイツの首都

 1871年に成立したドイツ帝国でも首都となり、ヨーロッパの中心都市との一つとなった。第一次世界大戦末期にはドイツ革命の舞台となって騒然とした時代が続き、ドイツ共和国ではミュンヘンなどの地方政権と対立した。1933年にナチス=ドイツ(第三帝国)のヒトラー政権が成立すると、ベルリンへの中央集権体制が築かれ、首都としての重要性が増し、1936年にはヒトラーとナチスの権威を高揚するためにベルリン=オリンピックが開催され、この時初めてギリシアのアテネからベルリンまで聖火リレーが行われた。

ベルリンの分割

 第二次世界大戦ではヒトラーが最後まで抵抗したため、末期には市街戦が展開されて市街地は破壊され、多くの市民が犠牲となった。戦後はドイツ国土が米英仏ソ4国に分割占領され、ベルリンはソ連管理地域内に位置することとなり、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソ連のベルリンを分割管理することとなった。

冷戦時代のベルリン問題

第二次世界大戦後の冷戦時代に、東西ベルリン間で起きたベルリン封鎖、ベルリンの壁構築などの対立が続いた。

 第二次世界大戦後の東西冷戦期において、東西両陣営が最も直接的に向かい合っていた東西ベルリンにおける一連の問題は「ベルリン危機」とも言われ、戦後世界の重大な関心の的であった。ベルリン問題では特に次の2次の深刻な危機があった。

第1次 1948年ベルリン封鎖

 西ベルリンのアメリカ・イギリス・フランス3国占領地域での通貨改革の実施に反発したソ連のスターリンが、1948年に西ベルリンへの交通路のすべてを封鎖した。これをベルリン封鎖といい、冷戦期の最初の緊張をもたらした。
1949年 東西ドイツの分離 西側から隔離された西ベルリン市民に対して、アメリカは大空輸作戦を展開して物資を援助し、スターリンも決定的な対立を避けたため、開戦は回避された。しかし東西対立は決定的となり、1949年には西側にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立してボンを首都とし、東側にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立して、東ベルリンが首都とされた。
1953年 ベルリン暴動 1950年代になると、アメリカの経済支援を受けた西ドイツはアデナウアーの主導による経済復興が顕著に進み、次第に西側と東側の経済成長の格差がはっきりとしてきた。そのようななか、1953年のスターリンの死去をきっかけに、東ベルリンでソ連の統制と生活苦とに反発したベルリン暴動という市民の暴動が起こった。これはただちに鎮圧されたが、50年代末から東ベルリンの民衆が、よりよい生活と自由を求めて、当時は通行自由だった西ベルリンを経由して西ドイツに脱出することがあとをたたなくなった。
1955年 ジュネーヴ4巨頭会談 1953年のスターリンの死去によって集団指導体制となったソ連が、西ドイツの存在を一切認めないという態度を改め、対話に応じる姿勢に転じたことと、朝鮮休戦協定の成立、第三世界の台頭などの世界情勢の変化が生じたことから、1955年、ジュネーヴ4巨頭会談が開催され、戦後初めて東西首脳が直接顔をあわせて平和共存が話し合われ、ベルリン問題も議題とされたが、具体的な妥協は図られなかった。
東ドイツの集団化強行 ソ連ではさらに1956年にはスターリン批判が行われたが、社会主義体制の転換には至らなかった。東ドイツでもソ連と同じような、教条的な社会主義体制建設のもとで、農業の集団化が強制的に進められ、農民の私的的営農が禁止された。このような東ドイツにおける集団化の強行による西ドイツへの亡命者の増加は、東ドイツ当局にとって労働力の流出とともに技術者の流出につながり、大きな痛手となった。

第2次 1961年 ベルリンの壁構築

 東ドイツからの西ドイツへの亡命者の増加に悩む東ドイツ当局とソ連は、対抗措置をとらざるを得なくなり、アメリカに圧力をかけるために、1958年に西ベルリンに駐留するアメリカ・イギリス・フランスの軍隊を撤退させることを要求した。アメリカなど西側はこれを拒否、深刻な対立が再び表面化した。
1961年 米ソ首脳会談決裂  一方で平和共存を求める国際世論の声も強く、1961年、アメリカで新大統領となったケネディは、ウィーンでソ連のフルシチョフと会談し、ベルリン問題の解決を目指した。
ベルリンの壁 しかし両者の主張は隔たりが大きく、物別れに終わり、同じ1961年8月、東ドイツのウルブリヒト政権は西ベルリンへの交通路を再び遮断して、ベルリンの壁を建設した。「ベルリンの壁」は長く東西冷戦の象徴として東西ベルリンを遮断していたが、1989年の東欧革命の激動の中でベルリンの壁が開放され、一挙にドイツ統一を加速させ、1990年のドイツ統一が実現し、ベルリンはドイツの唯一の首都となった。