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アラブ連合共和国

1958年、ナセルの主導によりエジプトとシリアが合併して成立した国家。アラブ民族の統合の第一歩とされたが、シリアの反発で1961年には解消された。

 1958年2月22日アラブ民族主義を掲げたナセル大統領のエジプト共和国バース党政権のシリアが合併して成立した国家。反米・親ソ路線をとる両国の合併であったが、アラブ世界の盟主を自覚するナセルの主導権が強まると、シリア側が反発し、1961年には解消された。

ナセルの反米路線

 スエズ戦争後、中東地域でイギリスが後退した後にソ連の影響力が強まったことを警戒したアメリカは1957年1月アイゼンハウアー=ドクトリンを発表して中東への武力介入もありえることを宣言した。しかしかえってアラブ民族の統一と連帯を説くアラブ民族主義が燃えあがることとなった。
 シリアではアラブ民族主義政党であるバース党が台頭し、ソ連に接近、さらにエジプトのナセル大統領を説いて、エジプトとシリアの統合を実現した。このカイロ=ダマスクス枢軸の成立は、アメリカだけでなく、周辺のイラク、ヨルダン、サウジアラビアの三王国にも大きな衝撃を与えた。そのうちイラク王国では同年の7月に王政が倒された(イラク革命)。さらにレバノンでもキリスト教徒とイスラーム教徒の対立が激化し、レバノン暴動が勃発した。

国家統合の背景

 エジプトとシリアの両国が統合してアラブ連合共和国となったのはシリア側の事情があった。シリアは1946年、フランスから独立したが政情が安定せず、政権は度々代わり、軍事クーデタが繰り返されていた。それはこの国家が第一次世界大戦でオスマン帝国が消滅した後、列強によって分割され、本来一体であったシリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダンに分断されたことによる。人工的に作られたシリアの国土では、民族のちがい、思想の違いが大きく、国民を結集する求心力が乏しかった。その隙を突いてアメリカなどが軍事介入を狙うなど国家的な危機が続いていた。アラブ民族主義を掲げて1947年に結成されたバース党政権ナセルのエジプトに接近し、エジプトと統合してアラブ民族の統合を果たすことで危機を脱そうと考えた。
 それに対してナセルは当初は消極的だった。国家統合には長い時間が必要と考えていたのだった。しかし、シリア側は早急な統合を要求、ナセル側の条件をすべて呑んで統合を急いだ。ナセルの示した統合の条件とは、ナセルの指導下における完全な国家統合であり、連邦制を否定、政党の廃止、軍の政治介入の禁止などであったが、シリア側はそれらを無条件で受け入れた。
 このような一方的な国家統合であったが、この統合を最も熱狂的に歓迎したのもシリアの民衆だった。またアラブ民族主義者にとっては、不可能と思われた民族の統一の第一歩になるものとして受け止められた。そしてそれを実現させたナセルの名声はさらに高まり、最も高揚した時期を迎えた。エジプトとシリアの国家統合は、両国の国民投票で承認され、正式にアラブ連合共和国が成立したのは1958年2月22日であった。<池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 p.54-58>

統合の解消

 しかし、この国家統合は、シリア側が言い出したものの合併後はエジプトが強まったために、シリア内部に分離派が生まれ、1961年9月28日に軍部がクーデターを起こして連合共和国の解消を決めたため、あっけなく消滅してしまった。シリアはその後も政情不安が強き、63年にはバース党が再びクーデタで権力を握る。
 なおエジプトは、1971年までアラブ連合共和国の国名を続けた。

Episode 世界を驚かした国家の結婚

 1958年2月1日、エジプトのナセル大統領とシリアのクワトリ大統領はカイロで前代未聞の合邦宣言に署名、不意打ちの「結婚発表」は世界を驚かせた。押しかけ花嫁はシリアの方で、ナセルの方は最後の瞬間までためらっていた。シリアはアメリカの脅威に対し、ナセルの権威に保護を求め、その懐にとびこもうとした。この結婚は急進的な共和主義が一組となってアラブ民族統合への第一歩となると考えられ、アラブ世界の民衆から歓呼を持って迎えられたが、同時に西欧とアメリカのアラブ支配、およびそれに依存する王政という古い秩序に対する挑戦であった。しかしこの「国家の結婚」はうまくいかず、わずか3年あまりで破綻してしまう。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.52 など>