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イラク革命

1958年、エジプト革命に刺激されたイラク民衆が、ハーシム王家を倒し共和政を実現した革命。イラク共和国が成立、翌年バグダード条約機構(METO)を脱退した。

 1958年7月14日イラク王国(ハーシム家のファイサル2世)が倒され、イラク共和国が成立した革命。イラクは第一次世界大戦後のイギリスの委任統治のもとで、1921年にハーシム家を国王とするイラク王国として独立し、1932年にはイギリス委任統治が終わり、完全独立を果たしていたが、国王は親英政策を続けていた。第二次世界大戦後、エジプト王国と同じく、パレスチナ戦争に敗れたことで、王政に対する不満が強まっていた。

イラク共和国の成立

 1952年、同じアラブ諸国であるエジプトで、ナセルらのエジプト革命が成功し、56年のスエズ戦争へと続くアラブ民族主義の高揚の中で、王政をとっていたイラクでも打倒の動きが具体化した。親イギリス政策を続けるハーシム王家のファイサル2世の王政に対し、1958年7月14日、カセム将軍、アレフ大佐らに指導された軍人グループがバグダードで蜂起、国王らを殺害し、イラク共和国を樹立した。
レバノン暴動に波及 イラク革命は中東のレバノンにすぐに影響を与え、7月に親米的なマロン派キリスト教政権に対するアラブ人が蜂起、レバノン暴動となった。それに対してアメリカのアイゼンハウアー政権は前年に出したアイゼンハウアー=ドクトリンに基づき、海兵隊を派遣し鎮定に当たった。しかしこのアメリカの軍事介入は国際的非難を浴び、まもなく撤退した。

イラクのバクダード条約機構脱退

 バグダードに成立したイラク革命政権は反英米の姿勢を明らかにした。これは同1958年2月にナセルの主導によるエジプトとシリアが合同してアラブ連合共和国が成立していたこととあわせて、イギリス・アメリカにとって大きな脅威となった。さらにイラクは翌59年にはバグダード条約機構(METO)を脱退した。そのため、同機構は中央条約機構(CENTO)に改組された。

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