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レバノン暴動

1958年に起こったレバノンでのキリスト教徒とアラブ人の衝突。アメリカ軍が軍事介入したが、国際的な非難によって年内に撤退した。

 1958年5月8日レバノンで起こった、親米的なマロン派キリスト教政権に対する、イスラーム教徒アラブ人の蜂起。第1次レバノン内戦とも言う。
 エジプトのナセル政権が1956年、スエズ戦争(第2次中東戦争)でスエズ運河国有化に成功したことによって、アラブ世界にアラブ民族主義が高揚したことを背景にして起こった。それを恐れたアメリカのアイゼンハウアー政権は1957年にアイゼンハウアー=ドクトリンを出して中東への軍事介入方針を表明していた。

マロン派政権に対するアラブ人の反乱

 レバノンではかねてからキリスト教徒とイスラーム教徒が共存する国家であり、大統領はキリスト教マロン派のシャムゥン大統領がつとめていた。そのもとではシリアとの関係も強いアラブ人イスラーム教徒も多かった。
 1958年2月にエジプトとシリアが合体してアラブ連合共和国が成立すると、レバノンのアラブ系住民もそれに参加することを求める声が強まった。それに対してマロン派のシャムゥン大統領はアラブ人イスラーム教徒勢力が強まり、攻勢に出てくることを恐れ、アメリカのアイゼンハウアー=ドクトリンによる軍事支援と経済援助を要請した。しかし、かえって大統領のアラブ人抑圧策に対する反発が強まり、1958年5月8日にパレスチナ難民を含むアラブ人住民が暴動を起こすと大統領擁護のマロン派がその制圧に回り、レバノン国内は内乱状態となった。

アメリカの介入

 さらに1958年7月14日イラク革命が勃発し、アラブ民族主義勢力によってハーシム家の国王一族が殺害され、王政が倒されると、革命の波及を恐れたアメリカは翌15日、レバノンに海兵隊1万を上陸させ、鎮圧に当たった。アメリカの軍事介入はアラブ世界で強い反発を招き、戦争への拡大が危惧されたが、アメリカが圧力を加えてシャムゥン大統領が再選を諦めて退陣に応じたので事態は収拾された。内戦への危機は回避されたが、国際連合でもアメリカ軍の軍事介入に批判が強まり、緊急総会で非難決議が可決され、アメリカ軍は10月に撤退した。 → 現代のレバノン
注意 「レバノン暴動」は第1次レバノン内戦とも言われる。そのばあいは第2次はレバノン内戦(1975年)となる。また、イスラエル軍のレバノン侵攻(1982年)とは区別されることに注意。
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