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アラブ民族主義運動

18世紀から盛んになったアラブ民族の統一と自立を求める運動。オスマン帝国がパン=イスラーム主義によってその支配を強化しようとしたのに対して、アラブ人としての民族独立を求める動きが強まった。第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、中東にアラブ系諸国が分立する状況となり、第二次世界大戦後はユダヤ人国家イスラエルがパレスチナに建国されたことに対する戦いを余儀なくされ、アラブ諸国の統一歩調がさらに重要となった。しかし各国で国内の民族対立、宗派間の対立が続き、アラブ諸国家の統合は実現していない。

アラブ民族主義の発生

 18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国の支配下にあったアラブ諸民族-アラビア語を使用するイスラーム教徒-の中に、トルコ系のオスマン帝国からの自立を求める運動が起こってきた。それは従来のウラマーを中心とした信仰に対する反省から興ったイスラーム改革運動と結びついて活発となり、特にアラビア半島でのワッハーブ派の動きなどに先駆的な動きが見られる。
 また19世紀中頃、シリアで始まったアラブ文化復興運動は、「アラブの覚醒」とも言われ、イスラーム教(ドウルーズ派)とキリスト教(マロン派)の中から宗教的な対立がイギリス・フランスの外国勢力に利用されていることを克服し、アラブ人(具体的にはアラビア語を母語とする人びと)として自覚し、結束しようとする運動であった。<アラブ、アラブ民族の概念については池内恵『現代アラブの社会思想』2002 講談社現代新書などを参照>

パン=イスラーム主義との違い

 19世紀後半には、イスラーム社会の改革を目指すもう一つの大きな潮流として、アフガーニーによって提唱されたパン=イスラーム主義がある。これは、その頃明確になったイギリスなどの西欧諸国の帝国主義侵略に対抗するために、ムスリム(イスラーム教徒)が民族や宗派の対立を越えて団結することが必要と説くものであり、アラブ民族主義とは相容れない思想である。アフガーニーの思想と活動はオスマン帝国、エジプト、イランなどに広く影響を及ぼし、1870年代のエジプトでウラービー運動な、80年代のイランでのタバコ=ボイコット運動などの反英闘争を指導する理念となった。
 また、19世紀末にはオスマン帝国のスルタンアブデュルハミト2世はアフガーニーをイスタンブルに招きパン=イスラーム主義を利用してオスマン帝国の再建を図ったが、宮廷内にはオスマン主義やトルコ民族主義が力を占めるようになっており、アフガーニーは孤立し幽閉される結果となる。

オスマン主義・トルコ民族主義

 オスマン帝国では、アブデュルハミト2世がパン=イスラーム主義を利用しようとした以前から、タンジマート改革を推進していた官僚や知識人の中に、宗教や民族の違いを越えてたオスマン人という意識を国家統合の理念にしようというオスマン主義の潮流があった。彼らはアブデュルハミト2世の専制政治が続くことに危機感を強め、青年トルコという結社をつくり、ついに1908年に放棄して青年トルコ革命を起こした。しかし、現実は露土戦争やバルカン戦争でヨーロッパ側の領土は殆ど失われ、帝国内のキリスト教徒は激減した。そうなるとオスマン主義派意味をなさなくなり、青年トルコ政権の中に、トルコ民族であることを自覚的に統合の原理にしようという「トルコ民族主義」が台頭した。同時に青年トルコ政権は残り少なくなった帝国領内に対する中央集権的な支配を強めていった。
 その一方、19世紀末から20世紀にかけての世界的な民族主義の高揚の中で、オスマン帝国内で抑圧されているという意識を持っていたアラブ人のなかにもアラブ民族主義が拡がっていった。その源流はアラブ文化復興運動イスラーム改革運動などにも求められるが、この時期に明確な形になったアラブ民族主義は、まずオスマン帝国の支配に対する民族独立の戦いとしてであった。

第一次世界大戦とアラブ民族主義

 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国と結んで参戦した。主としてロシアとの長い敵対関係があったからであった。オスマン帝国と対立することになったイギリスは、オスマン帝国内部のアラブ人に反乱を働きかけ、内部から弱体化させる工作を開始した。その中で活躍したのが、アラビアのロレンスと言われたロレンス大佐であった。イギリスが働きかけたのは、メッカのハーシム家の当主フセインであり、かれはアラブ民族主義を掲げてオスマン帝国支配地の西アジアの解放をめざしイギリスの後援で戦った。
 こうして「アラブの反乱」が始まったが、フセインは同じアラブ人の有力者でワッハーブ派と結びついていたサウード家との戦いに敗れ、アラビア半島ではサウード家によりサウジアラビア王国が建国され、ハーシム家はイラク、ヨルダンなどに王国を与えられた。こうして第一次世界大戦後にアラブ民族の独立は達成されたが、エジプトのムハンマド=アリー朝、サウジアラビアのサウド家、イラク・ヨルダンのハーシム家という王国が分立することとなった。これらの王国はそれぞれに王政に反対する動きをかかえ、さらにユダヤ人のパレスティナ移住という新たな脅威からアラブの地を守るという課題をかかえることとなった。

第二次世界大戦後のアラブ民族主義

 第二次世界大戦後、1945年にエジプト王国の提唱で、アラブの各王国はアラブ連盟をつくり、ユダヤ人国家の建設を阻止しようとしたが、1948年、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)で敗れ、イスラエルの建国を許してしまい、アラブ人のパレスチナ難民を抱えることとなった。王政という古い統治形態、王家同士の対立がアラブ民族主義の結束を弱めた要素となっていた。
 またアラブ諸国の領域では油田が発見されると、石油資源はアラブ諸国の有力な武器となると同時に、差ラブ諸国間の対立の新たな要因となって、中東情勢をますます複雑にしていくこととなった。
エジプト革命  1950年代以降のアラブ民族主義はまったく様相を変えて、イギリスなどの植民地支配に対する民衆の革命的エネルギーと結びつき、1952年のナセルなどに率いられたエジプト革命としてまず爆発した。
 さらにスエズ運河という利権をめぐって、1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)で国際世論を味方にしたナセルがアラブ民族主義(アラブ=ナショナリズム)の英雄として、反米・反イスラエル闘争を主導し、それをソ連が後押しするという図式となった。ナセルの主導するアラブ民族主義は、58年のシリアとの合邦「アラブ連合共和国」の成立でピークを迎えるが、61年のその解体とともに運動は地域的闘争に分解していく。

アラブ民族主義の分裂

 1979年のエジプト=イスラエル平和条約によるエジプト(サダト大統領)のアラブ戦線からの離脱はアラブ民族主義を崩壊させた。同年のイラン革命以後は、アラブ民族主義に代わって、イスラーム原理主義が台頭し、アラブ各国がそれぞれに過激な運動体を抱えこみ翻弄されているという状況である。また湾岸戦争、イラク戦争はアラブ諸国を分裂させ、いまや産油国としての共通利害のみになってしまった。

補足 カウミーヤとワタニーヤ

 アラブ民族の統一と連帯という理念はアラビア語でカウミーヤという。しかし一方でアラブ世界には、祖国愛(郷土愛)を意味するワタニーヤという言葉がある。アラブ世界の情勢は、このカウミーヤとワタニーヤが対立する概念として常に議論されている。混迷の原因は、現在の中東の諸「国家」と言われるものが、カウミーヤともワタニーヤとも無縁な、人為的(イギリス・フランスの都合)作業で線引きされたものであるということである。イラクのようにスンナ派とシーア派の地域をくっつけてしまったり、クルド人のように国家が与えられず、居住区が数カ国に分けられてい待った。またレバノンのような多民族、多宗教国家もある。ワタニーヤを抹殺するようなカウミーヤの運動は成功してこなかったし、ワタニーヤを他に押しつける動きも失敗している。中東全体でワタニーヤを共存させ包摂しながら、カウミーヤをも実現するということができれば、問題は解決するであろうが。<参考 山内昌之『民族と国家』-イスラム史の視覚から- 1993 岩波新書 など>
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書籍案内

山内昌之
『民族と国家-イスラム史の視角から-』
1993 岩波新書

池内恵
『現代アラブの社会思想』
2002 講談社現代新書