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アラブ民族主義運動

18世紀から盛んになったアラブ民族の統一と自立を求める運動。

アラブ民族主義の発生

 18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国の支配下にあったアラブ諸民族-アラビア語を使用するイスラーム教徒-の中に、トルコ系のオスマン帝国からの自立を求める運動が起こってきた。それはイスラーム教の改革運動と結びついて活発となり、特にアラビア半島でのワッハーブ派の動き、エジプトでのムハンマド=アリーの台頭と、その後のウラービー運動などに顕著に見ることができる。またそれらを尖鋭にした、アラブ民族統一運動を提唱したのがアフガーニーであった(アフガーニーはイラン人であったが)。アフガーニーは19世紀後半にパン=イスラーム主義を提唱し、イギリスなどの西欧諸国の帝国主義侵略に対抗するためにイスラーム教徒の団結を呼びかけ、現代のイスラーム原理主義にも大きな影響を及ぼすこととなる。

第一次世界大戦とアラブ民族主義

 メッカのハーシム家のフサインもアラブ民族主義を掲げてオスマン帝国支配地の西アジアの解放をめざしイギリスの後援で戦った。しかし、アラビア半島ではワッハーブ派と結びついていたサウド家が再び台頭し、サウジアラビア王国を建国、ハーシム家はイラク、ヨルダンなどに王国を与えられた。こうして第1次世界大戦後にアラブ民族の独立は達成されたが、エジプトのムハンマド=アリー朝、サウジアラビアのサウド家、イラク・ヨルダンのハーシム家という王国が分立することとなった。これらの王国は、今度はユダヤ人のパレスティナ移住という新たな脅威からアラブの地を守るという課題が生まれた。

第二次世界大戦後のアラブ民族主義

 戦後、アラブの各王国はアラブ連盟をつくり、ユダヤ人国家の建設を阻止しようとしたが、1948年、a href="wh1601-147.html">パレスチナ戦争(第一次中東戦争)で敗れ、イスラエルの建国を許してしまい、アラブ人のパレスチナ難民を抱えることとなった。王政という古い統治形態、王家同士の対立がアラブ民族主義の結束を弱めた要素となっていた。1950年代以降のアラブ民族主義はまったく様相を変えて、イギリスなどの植民地支配に対する民衆の革命的エネルギーと結びつき、1952年のナセルなどに率いられたエジプト革命としてまず爆発した。
ナセルの主導権 さらに1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)で国際世論を味方にしたナセルがアラブ民族主義(アラブ=ナショナリズム)の英雄として、反米・反イスラエル闘争を主導し、それをソ連が後押しするという図式となった。ナセルの主導するアラブ民族主義は、58年のシリアとの合邦「アラブ連合共和国」の成立でピークを迎えるが、61年のその解体とともに運動は地域的闘争に分解していく。

アラブ民族主義の分裂

 1979年のエジプト=イスラエル平和条約によるエジプト(サダト大統領)のアラブ戦線からの離脱はアラブ民族主義を崩壊させた。同年のイラン革命以後は、アラブ民族主義に変わって、イスラーム原理主義が台頭し、アラブ各国がそれぞれに過激な運動体を抱えこみ翻弄されているという状況である。また湾岸戦争、イラク戦争はアラブ諸国を分裂させ、いまや産油国としての共通利害のみになってしまった。

補足 カウミーヤとワタニーヤ

 アラブ民族の統一と連帯という理念はアラビア語でカウミーヤという。しかし一方でアラブ世界には、祖国愛(郷土愛)を意味するワタニーヤという言葉がある。アラブ世界の情勢は、このカウミーヤとワタニーヤが対立する概念として常に議論されている。混迷の原因は、現在の中東の諸「国家」と言われるものが、カウミーヤともワタニーヤとも無縁な、人為的(イギリス・フランスの都合)作業で線引きされたものであるということである。イラクのようにスンナ派とシーア派の地域をくっつけてしまったり、クルド人のように国家が与えられず、居住区が数カ国に分けられてい待った。またレバノンのような多民族、多宗教国家もある。ワタニーヤを抹殺するようなカウミーヤの運動は成功してこなかったし、ワタニーヤを他に押しつける動きも失敗している。中東全体でワタニーヤを共存させ包摂しながら、カウミーヤをも実現するということができれば、問題は解決するであろうが。<参考 山内昌之『民族と国家』-イスラム史の視覚から- 1993 岩波新書 など>
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第13章1節 イ.アラブ民族のめざめ
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山内昌之
『民族と国家-イスラム史の視覚から-』
1993 岩波新書