印刷 | 通常画面に戻る |

プラハの春

1968年、「人間の顔をした社会主義」を掲げるドプチェクの指導の下で展開された、チェコスロヴァキアでの民主化運動。

 チェコスロヴァキアでは1948年の2月事件で共産党政権が成立してチェコスロヴァキア社会主義共和国となって以来、スターリン批判の受容が遅れて党改革が行われず、1960年代からは経済面での停滞から成長の低下が問題となってきた。特に文学者が知識人、学生の中から民主化と自由化を望む声が強まり、民主化運動による政府批判が高まった。
 1968年春、チェコスロヴァキア共産党は第一書記にドプチェクを選任、改革派を登用して民主化に乗り出した。まず3月には検閲制度を廃止して言論の自由を保障し、ついで4月には新しい共産党行動綱領を決定して「人間の顔をした社会主義」を目指すことが打ち出された。これを受けてチェコスロヴァキア内の議論はまさに百花斉放を様相を呈し、新たな政党の結成の動き現れ、首都プラハの町にはミニスカートなどの西欧風の諸文化が大量に開花した。また6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線を強く支持し、旧来の体制に戻ることに強い反対が表明された。これら1968年春の一連の自由化の爆発を「プラハの春」と言っている。 
 しかし、夏になると8月20日にソ連ブレジネフ政権は、ワルシャワ条約機構5ヵ国軍を侵攻っせて軍事弾圧に踏み切り、市民の抗議の嵐の中をプラハの中心部を制圧、ドプチェクらを連行した。このチェコ事件によってプラハの春は踏みにじられてしまった。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺