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チェコ事件

1968年、社会主義体制の中での自由化・民主化を目指したチェコスロヴァキア政府の改革を、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍が軍事介入して抑圧した事件。社会主義経済の停滞と共産党一党独裁のもとでの官僚的支配が続く東欧圏を大きく揺るがす動きであったが、ソ連のブレジネフ政権は制限主権論を掲げて統制を強めた。

ドプチェクの改革「プラハの春」

 チェコスロヴァキアでは、1948年に成立したチェコスロヴァキア社会主義共和国ノヴォトニー共産党第一書記による政権のもとで、経済の停滞と言論の抑圧などに対する不満が強まっていた。1968年に民主化運動が盛り上がり、ノヴォトニーは辞任、後任にドプチェクが就任した。ドプチェク第一書記は、路線の転換と民主主義改革を宣言、一気に「プラハの春」と言われた改革を実行した。3月にはノヴォトニーは大統領も辞任、代わって第二次世界大戦の国民的英雄スボボダが選出された。ドプチェクの改革は社会主義を否定するものではなく、「人間の顔をした社会主義」という言葉で示されるように、国民の政治参加の自由、言論や表現の自由などを目指すものであった。

ソ連軍などの介入

 この動きに対してソ連ブレジネフ政権は社会主義体制否定につながると警戒し、介入を決意、1968年8月20日にソ連軍を主体とするワルシャワ条約機構5カ国軍の15万が一斉に国境を越えて侵攻、首都プラハの中枢部を占拠してドプチェク第一書記、チェルニーク首相ら改革派を逮捕、ウクライナのKGB(国家保安委員会)監獄に連行した。これがチェコ事件と言われるもので、全土で抗議の市民集会が開かれ、またソ連の実力行使は世界的な批判を浴びた。スボボダ大統領は執拗にドプチェクらの釈放を要求、ソ連は釈放は認めたが、ソ連軍などの撤退は拒否した。

社会主義圏の反応の違い

 このとき、ブレジネフ政権が軍事介入を正当化するために掲げたのがブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)であったが、それに同調してチェコに軍隊を派遣したワルシャワ条約機構加盟国は、ソ連の他、・ウルブリヒト政権の東ドイツゴムウカ政権のポーランドカーダール政権のハンガリー、ジフコフ政権のブルガリアという、いずれも独裁的な長期政権下にある社会主義国5ヵ国にとどまった。チェコ侵攻の強硬派はソ連のブレジネフと東独のウルブリヒト、ポーランドのゴムウカであった。ハンガリーのカーダールはドプチェクとも会談して事態打開に努めたが実を結ばなかった。
 ワルシャワ条約機構加盟国で軍隊を送らなかったのは、ルーマニアのチャウシェスク政権であった。ルーマニアは「自由で独立した社会主義兄弟国家の国家主権に対する明白な侵害」という非難声明を出した。また東欧社会主義圏であるが、同調しなかったティトー政権のユーゴスラヴィアは「深い憤慨と抗議」を表明し、ホッジャ政権のアルバニアは「ソ連修正主義の野蛮な侵略に対して、チェコスロヴァキア修正主義裏切り者集団は最も恥ずべき形で降伏した」と論評、中国(毛沢東)の『人民日報』も「ソ連修正主義裏切り者集団と東欧諸国の裏切り者集団との深刻な矛盾」の現れととらえ、「ソ連は社会帝国主義に墜落」したと非難した。

「正常化」政権への後退

 復帰したドプチェクはソ連とも妥協し検閲の復活などを認めた。なおも不満な市民と学生は、翌69年も断続的にデモやストを行ったので、ソ連はさらに圧力を加え、4月にドプチェクを解任、代わってフサークが第一書記に就任、その後は改革派は排除されフサークによる「正常化」と称する改革否定の後戻りがなされた。

チェコ事件の影響

 1968年のチェコ事件は、東欧社会主義圏が一体ではないことを明確にし、またソ連の軍事介入が現実のものとなったことは西側諸国と中国に複雑な影響を与えた。それは大きくみれば冷戦を現実のものとして受け入れ、東西がどのように折り合いとつけていくことができるかを探る動きとなり、冷戦構造を変質させることとなった。
 まず現れたのは、1970年からの西ドイツのブラント政権が東方外交を打ち出し、ソ連・ポーランドとの国境を承認し、直接交渉を開始するという事から始まり、いわゆる緊張緩和(デタント)へと動き出すこととなった。中国(毛沢東)では文化大革命が始まっていたが、ソ連のブレジネフがブレジネフ=ドクトリンで示した制限主権論が中国にまで及ぼされることを警戒して軍事強化に乗り出し、その中ソの緊張から翌1969年の中ソ国境紛争の衝突となる。
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第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺