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ブレジネフ=ドクトリン/制限主権論

1968年のチェコスロヴァキアにおけるドプチェクによる改革、いわゆる「プラハの春」に対して、ソ連のブレジネフが軍事介入したチェコ事件の際に示した社会主義国の連帯重視の原則。

 1968年9月28日、ソ連のブレジネフ書記長が、チェコ事件に際して発表した、社会主義国家間の関係を規定する文書。要約すれば、
社会主義諸国は、社会主義共同体としての利益を、各国個別の国家的利益に優先しなければならない。社会主義共同体全体の利益が脅威にさらされた場合は、共同して介入して全体利益を守ることが社会主義国の義務である。
というもの。社会主義国全体の利益のためには、一国の主権が制限されてもやむを得ない、という議論なので、「制限主権論」とも言われている。

チェコ事件でソ連の軍事介入を正当化

 1968年春、チェコスロヴァキア社会主義共和国の第一書記にドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げ改革を開始した。その動きは「プラハの春」といわれ、一気に広がった。この民主化運動を、複数政党制や自由経済など、社会主義の根幹の否定につながる危険なものとととらえたソ連のブレジネフ政権は、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍を動員、同年8月20日に、プラハを制圧して押しつぶした。ブレジネフ=ドクトリンはその正当性を後ずけするのものでり、その後も社会主義陣営に対する有形無形の圧力として機能した。しかし、一枚岩と思われる社会主義陣営であったが、実際にはすでに深い亀裂が生じており、チェコ事件に際しても足並みはそろわなかった。

社会主義陣営の足並みの乱れ

 ブレジネフ=ドクトリンに対して、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアは同調したが、同じ東欧でもユーゴスラヴィアアルバニアは明確に反対し、ルーマニアは否定的であった。また中国はソ連の社会帝国主義の現れとして激しく反発、翌69年には中ソ国境紛争は珍宝島事件で衝突するまでになった。

ブレジネフ=ドクトリンの放棄

 このブレジネフ=ドクトリンは、スターリン批判後にゆるんだ東欧諸国のタガを締め付けるものであったが、さらに対象は中央アジアに広げられ、1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻もこの原則に則って行われた。
 しかし、60~70年代の西側の経済発展(特に西ドイツと日本)に比べてソ連の停滞をはじめ、東欧社会主義の経済停滞が明らかになるにつれて、ソ連自身が改革の必要を感じるようになり、ブレジネフ死後の混乱を経て、1985年にゴルバチョフが登場、ペレストロイカとともに推進された新思考外交のなかで、新ベオグラード宣言が出され、制限主権論は放棄された。
 ソ連が制限主権論の枠を取り払ったことが、1989年の東欧諸国が一挙にソ連離れして、東欧革命の嵐を呼び起こし、さらに1991年のソ連の解体につながっていく。
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