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ワルシャワ条約機構

1955年5月、ソ連と東欧の8カ国が、西側のNATOに対抗して結成した軍事同盟。同月の西ドイツの再軍備とNATO加盟が認められたことに反発した。

 1955年5月14日、ポーランドの首都ワルシャワで締結された東欧8カ国友好相互援助条約に基づいて結成された、ソ連を中心とした東ヨーロッパ社会主義圏(共産圏)の軍事同盟。通称WTO。すでに1949年4月に結成されていた西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗する軍事同盟であるが、直接的には1955年5月5日に西側諸国のパリ協定で認められた西ドイツの再軍備とNATO加盟にソ連が反発したためである。

意義と背景

 これによって冷戦体制の二大軍事同盟の対立という図式が完成したと言えるが、同時に互いに相手を無視することはできなくなり、共存せざるを得ないことが自覚されたことを意味する。当時ソ連は1953年にスターリンが死去して集団指導体制に入っており、翌56年にはフルシチョフによってスターリン批判が行われて、アメリカを完全敵視あるいは無視といった態度を改め、平和共存が模索されることになる。

加盟国

 加盟国はソ連ポーランド東ドイツチェコスロヴァキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアの8カ国。東欧圏に属するユーゴスラヴィアは独自路線を採り、参加しなかった。また1968年にはチェコ事件でソ連に反発してアルバニアが脱退した。

目的

 ワルシャワ条約機構は西ドイツ、西欧同盟、NATOを仮想敵として明示していた。前文に、「再軍国化した西ドイツの参加した『西ヨーロッパ連合』の形における新たな軍事的共同戦線の結成、および北大西洋ブロックへの西ドイツの加盟を規定し、その結果、新戦争への危機が高まり、かつ平和愛好国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定の批准によってヨーロッパに生起した情勢を考慮し・・・」とある。NATOに対抗して共産圏諸国が集団的自衛権を行使し、軍事同盟を組織したと言うことになる。

活動と内紛

 冷戦期間はNATOと厳しく対立してにらみ合う状況を続けた。同時に、東側諸国間での異端分子に対する抑圧にも動き、チェコの「プラハの春」といわれた民主化運動に介入し、1968年8月ワルシャワ条約機構5ヵ国軍(ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア)がプラハを制圧し自由化運動を抑圧した(チェコ事件)。このとき、ルーマニアは派兵せず、アルバニアはソ連を批判してワルシャワ条約機構を脱退した。体制の締め付けを強化する必要に迫られたソ連のブレジネフ書記長は、ブレジネフ=ドクトリンで制限主権論を掲げて一国の利益よりは社会主義国共同の利益が優先され、社会主義国全体の脅威に対しては共同して介入することは正当であると主張した。

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ワルシャワ条約機構の解散

1985年に登場したソ連のゴルバチョフ政権のもとでペレストロイカ(改革)が進み、1989年の東欧革命による東欧諸国が社会主義からの離脱、米ソ首脳による冷戦終結も宣言されたことをうけ、1991年7月に解散、その直後にソ連は解体した。

ペレストロイカと東欧革命

 1970~80年代、ソ連および東欧の社会主義国は硬直した官僚機構の支配が続く中、経済の行きづまりが深刻化し、内側から改革と民主化を求める声が強まった。1985年にソ連に登場したゴルバチョフが進めたペレストロイカを機に改革の波は一気に広がり、ついに1989年、一斉に東欧革命となって爆発し、各国の民主化が実現、11月にはベルリンの壁も崩壊した。
「プラハの春」介入を自己批判 同年12月初めにモスクワで開催されたワルシャワ条約機構首脳会議は、1968年の「プラハの春」に際して軍事介入をしたチェコ事件について(軍を出さなかったルーマニアをのぞき)、誤りであったことを自己批判した。ワルシャワ条約機構首脳が一堂に会した会議はこれが最後となり、事実上活動を停止した。
冷戦の終結 同時期の12月2日開かれた米ソ両国首脳のマルタ会談では、冷戦の終結が宣言され、冷戦はあっけなく終わりを告げた。1990年10月にはドイツが統一を果たし、東ドイツが消滅した。

ワルシャワ条約機構の解散

 それによってワルシャワ条約機構は意味が無くなったため、1991年3月31日、ワルシャワ条約機構は軍事機構を解体して活動を停止、続いて同1991年7月1日にプラハで同機構を解散する議定書が調印されて、消滅した。
 同年、ワルシャワ条約機構解散に先立ち、6月には東欧圏の経済協力機構であったコメコンも解散し、ソ連を中心とした東欧諸国の社会主義圏は完全に姿を消した。同年8月19日、ソ連の保守派がクーデタに失敗したことから、一気にソ連の解体が進み、12月に独立国家共同体/CIS(CIS)が成立した。
 1991年にはワルシャワ条約機構解散に先立って1月17日に中東で湾岸戦争が始まり、また6月にはユーゴスラヴィア内戦が始まるなど、東西連戦終了後の新たな対立がはじまった。

旧ソ連圏の集団安全保障条約機構(CSTO)

 ワルシャワ条約機構はソ連とともに消滅したが、旧ソ連邦を構成していた諸国は、1991年に独立国家共同体(CIS)を結成し、翌1992年5月にはその軍事協力のために集団安全保障条約を締結した。さらに同条約締結国(6カ国)は、2002年5月14日に集団安全保障条約機構(CSTO )を結成し、安全保障・領土保全・テロ対策などで協力することをとりきめた。現在(2022年1月)の加盟国はロシア連邦アルメニアカザフスタンキルギスタジキスタンベラルーシの6カ国。旧ソ連邦加盟国でも加わっていない国もある。
 これは当初、テロ対策が主な任務と考えられていたが、2010年代からウクライナのNATO加盟の動きが出たことにロシアのプーチン政権が反発し、ウクライナをめぐってロシアとアメリカ・西欧のNATO諸国の対立が先鋭になる中、2022年1月のカザフスタンで起こった国内騒乱に対して初めてロシア軍がCSTO軍の先遣部隊として派遣され、にわかにその存在が意識されるようになり浮上した。

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