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ワルシャワ条約機構

1955年、ソ連と東欧の8カ国が、西側のNATOに対抗して結成した軍事同盟。

 1955年5月、ポーランドの首都ワルシャワで締結された東欧8カ国友好相互援助条約に基づいて結成された、ソ連を中心とした東ヨーロッパ社会主義圏(共産圏)の軍事同盟。通称WTO。すでに1949年4月に結成されていた西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗する軍事同盟であるが、直接的にはソ連が同年の西側諸国のパリ協定で認められた西ドイツの再軍備とNATO加盟に反発したためである。

意義と背景

 これによって冷戦体制の二大軍事同盟の対立という図式が完成したと言えるが、同時に互いに相手を無視することはできなくなり、共存せざるを得ないことが自覚されたことを意味する。当時ソ連は1953年にスターリンが死去して集団指導体制に入っており、翌56年にはフルシチョフによってスターリン批判が行われて、アメリカを完全敵視あるいは無視といった態度を改め、平和共存が模索されることになる。

加盟国

 加盟国はソ連ポーランド東ドイツチェコスロヴァキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアの8カ国。東欧圏に属するユーゴスラヴィアは独自路線を採り、参加しなかった。また1968年にはチェコ事件でソ連に反発してアルバニアが脱退した。

目的

 ワルシャワ条約機構は西ドイツ、西欧同盟、NATOを仮想敵として明示していた。前文に、「再軍国化した西ドイツの参加した『西ヨーロッパ連合』の形における新たな軍事的共同戦線の結成、および北大西洋ブロックへの西ドイツの加盟を規定し、その結果、新戦争への危機が高まり、かつ平和愛好国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定の批准によってヨーロッパに生起した情勢を考慮し・・・」とある。NATOに対抗して共産圏諸国が集団的自衛権を行使し、軍事同盟を組織したと言うことになる。

活動と内紛

 冷戦期間はNATOと厳しく対立してにらみ合う状況を続けた。同時に、東側諸国間での異端分子に対する抑圧にも動き、1968年、チェコ事件に際してはワルシャワ条約機構5ヵ国軍(ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・ブルガリア)がプラハを制圧し自由化運動を抑圧した。このとき、ルーマニアは派兵せず、アルバニアはソ連を批判してワルシャワ条約機構を脱退した。体制の締め付けを強化する必要に迫られたソ連のブレジネフ書記長は、ブレジネフ=ドクトリンで制限主権論を掲げて一国の利益よりは社会主義国共同の利益が優先され、社会主義国全体の脅威に対しては共同して介入することは正当であると主張した。

ワルシャワ条約機構の解散

1989年の東欧革命による東欧諸国の社会主義からの離脱、1991年のソ連の解体に伴い、解散した。

 1989年、東欧革命の嵐が巻き起こり、東ヨーロッパ諸国は次々と社会主義から離脱した。その年の末、12月4日にはモスクワで開催されたワルシャワ条約機構首脳会議は、1968年の「プラハの春」に際して軍事介入をしたチェコ事件について(軍を出さなかったルーマニアをのぞき)、誤りであったことを自己批判した。ワルシャワ条約機構首脳が一堂に会した会議はこれが最後となり、事実上活動を停止し、さらに1991年、ソ連の解体を受け、正式に解散した。同年、共産圏の経済協力機構であったコメコンも解散し、ソ連を中心とした東欧諸国の社会主義圏は完全に姿を消した。
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ノートの参照
第16章2節 イ.雪解けと平和共存