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チェコスロヴァキア社会主義共和国

1948年共産政権が成立。工業化を背景に自由化を模索するがソ連の軍事介入を招く。

 チェコスロヴァキアでは、第二次世界大戦後の1948年、チェコスロヴァキア共和国共産党によるクーデター(二月事件)が起こり、人民民主主義を掲げたチェコスロヴァキア社会主義共和国が成立した。
 1953年にノヴォトニーが共産党第一書記となり、さらに57年に大統領に就任したが、1960年代に入ってもスターリン批判の影響がおよばず、社会主義経済の停滞が目立ち始め、硬直化したノヴォトニー政権への不満が強まっていった。ノヴォトニー政権は文学者などによる民主化運動を厳しく弾圧したため辞任要求の声が強まった。 → チェコスロヴァキア

プラハの春

 1968年春にノヴォトニーが辞任、後任のドプチェク共産党第一書記が路線の転換と民主主義改革を宣言、一気に「プラハの春」と言われた改革が始まった。ドプチェクの改革は「人間の顔をした社会主義」、つまり国民の政治参加の自由、言論や表現の自由などを目指す当然のものであった。

ソ連の軍事干渉 チェコ事件

 ドプチェクの改革に対してソ連ブレジネフ政権は社会主義体制否定につながると警戒し、1968年8月20日に軍事介入に踏み切り、ドプチェク第一書記らを逮捕した(チェコ事件)。翌年4月にドプチェクを解任、代わってフサークが第一書記に就任、その後は改革派は排除され「正常化」と称する改革否定の後戻りがなされた。

フサーク政権

 1969年に改革派を一掃して成立したフサーク「正常化」政権のもとで、1970年代には反政府的な言動には徹底した取り締まりが行われ、市民は沈黙を余儀なくされたが、チェコスロヴァキアも参加した1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)ヘルシンキ宣言が決議され、人権問題が取り上げられたことから、ヨーロッパ各国のチェコスロヴァキアの人権抑圧にたいする批判が強まった。

憲章77

 1977年には劇作家のハヴェルらが中心となった知識人たちによる「憲章77」が発表され、言論や集会の自由、法の前での平等などを強く世界に訴えた。政府はそれに署名した人々を次々と逮捕、運動は押さえつけられたが、政府の人権抑圧に対する民衆の不満はふくれていった。

社会主義の放棄

 1987年、フサークは建康を理由にヤケシュが書記長となり、ソ連のゴルバチョフ改革に倣った経済改革が行われたが不徹底なものであり、人権問題では前進がなかった。チェコ事件で抑圧された民主化と自由化への願望が次に一気に吹き出したのが、一連の東欧革命の年である1989年の10月だった。「憲章77」のメンバーを中心に「民主フォーラム」が結成され、政権交代が叫ばれ、フサークを継承していたヤケシュ共産党政権は政権移譲を承認、流血を伴わず社会主義の放棄が決定された。 → 1989年のチェコスロヴァキア
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ノートの参照
第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺