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憲章77

1977年、チェコスロヴァキアの知識人が、言論の自由などの改革を提唱した文書。

 1977年、チェコスロヴァキア社会主義共和国の知識人が発表した、言論の自由、信教の自由、集会・結社の自由、法のまでの平等と言った基本的人権が著しく損なわれていることを詳細に明らかにした文書。この憲章は世界に広く報道され、関心と同情が起こったが、共産党政権はその要求に応えず、運動は抑えられた。しかし、1968年以来のチェコスロヴァキアの民主化運動を継承する運動と成り、その後も「憲章77」は反体制組織として継承された。

民主化のアピール

 「憲章77」は1977年1月1日に発表され、元カレル大学哲学教授パトチカ、劇作家ハヴェル、元外相ハーイェクの三名が呼びかけ人となり、242名が署名していた。その多くは1968年の「プラハの春」の支持者だった。作成の動機は、1975年のヘルシンキで開催された全欧安全保障協力会議(CSCE)が人権等に関する最終文書を採択、その履行状況を確かめるための再検討会議が、1977年6月からベオグラードで開かれる予定になっていたので、そこでチェコスロヴァキアの現状をアピールするためであった。
 署名者にはチャスラフスカ(東京オリンピックの女子体操優勝)やザトペック(人間機関車と言われた戦前からのマラソン選手で国民的英雄)などの著名人も含まれていた。国内では発表と同時に文書は押収され、所持者は身柄を拘束されたので国民はほとんど読むことができず、西側の新聞で報道されて知られることになった。

運動の継承

 政府は直ちに反「憲章77」のキャンペーンを開始し、拘留されたパノチカは心臓病が悪化して死去し、その他も厳しい取り締まりを受けて運動は抑えられた。しかし、フランス、イタリアなどの西側諸国の共産党だけでなく、アルバニアをのぞく東側諸国の反体制派にも大きな反響を呼び起こした。ハヴェルらは弾圧に屈せず、知識人の反体制組織として「憲章77」を継続させ、活動を続け、1989年のビロード革命と言われたチェコスロヴァキアの民主化を実現した。

Episode 音楽と宗教を解放した「憲章77」

 「憲章77」の運動そのものは、警察力によって封じ込められたが、社会の中のエネルギーを二つの分野で解放した。音楽と宗教である。ジャズ、フォーク、ロックなどの音楽は社会的閉塞感のなかで、爆発的な人気が高まっていたが、当局はそこに危険な破壊的エネルギーを嗅ぎとり、人気バンドのコンサートを禁止した。公認の音楽家協会の一部門であった「ジャズ部会」も演奏が禁止されたが、活動を続けたため86年にバンドリーダーのカレル=スルプ以下が有罪となった。これらの動きは民衆の反発を強めるだけだった。宗教面でも牧師たちの中に「憲章77」に共鳴して、人権運動に加わるものが現れ「地下教会」で伝道が続いた。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 p.186>
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ノートの参照
第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺