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ヤルゼルスキ

ポーランドで1980年代に政権を握り、連帯の民主化運動を弾圧したが、1989年には連帯を合法化するなど、民主化運動との妥協を図った。

ヤルゼルスキ
Jaruzelski 1923~
ポーランドの軍人で政治家。1980年の「連帯」によるストライキでギエレクが退陣した後、ポーランド統一労働者党第一書記として反体制運動抑圧の指揮を執った。1981年12月には戒厳令を発して、「連帯」を非合法化し、ワレサなどの活動家を逮捕、事態を沈静化させた。以後は「救国軍事評議会議長」として実権を握り、ソ連とは一線を画して改革派にも歩み寄り、国内で影響力のあるカトリック勢力とも協力体制をとりながら一定の経済改革を進めた。

ポーランドの民主化との関わり

 1988年に再び物価値上げ問題から労働者のストが続発すると、労働者・知識人との対話に応じ、翌1989年には「経済と政治の複数化」を承認、また円卓会議で「連帯」の再合法化を承認、6月の複数政党による自由選挙の実施などの改革を矢継ぎ早に実施し、ポーランドの民主化に大きな役割を果たした。9月には「連帯」との妥協が成立して大統領に就任した。しかし翌90年、「連帯」が分裂し、12月「連帯」急進派のワレサが大統領選で当選すると協力を否定して大統領を辞任した。

Episode 黒眼鏡に秘められた過去

 ヤルゼルスキという人は、「鉄の男」といわれ人気があったワレサに比べて、非道な抑圧者というイメージが強い。その印象は彼のいつも黒眼鏡の写真からも感じられる。しかし実はヤルゼルスキは文学と歴史の教養のある、人格の優れた人物(つまりワレサとはだいぶ違うという)評価が高い。またポーランドの愛国者としての姿勢は一貫している。ヤルゼルスキは家系をたどれば15世紀中葉のポーランド貴族シュラフタの出身であった。祖父のウォイチェフはポーランド分割後の1863年、ポーランドの反乱といわれる反ロシアの一月蜂起に参加してシベリア流刑になっており、父のウワジスワウは独立回復後のポーランドに攻め込んだロシアのボリシェヴィキ政権の軍隊との戦闘であるソヴィエト=ポーランド戦争に加わった。
 1923年生まれのヤルゼルスキは、33年、ワルシャワのカトリック系学校で祖国愛を養い、文学と歴史の素養を身につけたが、39年に始まるドイツ軍のポーランド侵攻で一家は戦火を逃れリトアニアに逃れる。しかしリトアニアはソ連に併合され、一家離散する。ソ連内務人民委員部に捕らえられたヤルゼルスキは、家畜用車両に押し込まれ、シベリア送りになる。そこで過酷な森林伐採の労働にかり出され、強烈な雪の照り返しとビタミン不足から目を傷めた。彼が黒眼鏡を手放せなくなったのはこのためである。
 やがてソ連が組織したポーランド軍に加わり、ワルシャワを解放し祖国に戻った。このように、ヤルゼルスキには帝政ロシア以来の反ロシア感情が根強かった。しかし、現実政治家としてのヤルゼルスキは、1981年の戒厳令は、ソ連軍の介入を避けるぎりぎりの選択だったと言っている。そして、民主化達成前の87年、訪ソし、ゴルバチョフとの間で交渉し、それまでソ連がかたくなに否定していた「カチンの森」事件への関与を正式に認めさせ「イデオロギー協力宣言」を調印した。そして民主化達成後に訪ソしたヤルゼルスキに対し、ゴルバチョフは正式に謝罪し、一応の決着をつけ、ヤルゼルスキは引退した。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.109-130>
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ノートの参照
第17章2節 イ.東欧社会主義圏の解体
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三浦元博/山崎博康
『東欧革命』
1992 岩波新書