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ソヴィエト=ポーランド戦争

1920年4月からのソヴィエト=ロシアとポーランド間に起こった戦争。ソ連軍が敗北した

 ポーランドのロシア領は、ブレスト=リトフスク条約でドイツに譲られることとなったが、ドイツは敗北し、帝国も解体したため、同条約は破棄され、1918年11月、ポーランドの独立が認められた。しかし、ポーランドとロシア(ソヴィエト)の国境策定が問題となった。
 ポーランドの実権を握ったピウスツキは、18世紀の三国によるポーランド分割以前の大ポーランドの復活を要求し、西ウクライナや白ロシアの領有を主張した。ロシア側はそれを認めず、イギリスは外相カーゾンの策定した国境線(カーゾン線)で調停しようとしたが不調に終わった。フランスはソヴィエト政権の拡張をおそれ、ポーランドに軍事顧問団を派遣した。

ポーランド軍の勝利

 1920年4月、ポーランドはソヴィエト・ロシア攻撃に踏み切り、ウクライナに侵攻しキエフを占領、それに対しロシア側は、トハチェフスキーとトロツキー指揮の赤軍が反撃、ワルシャワを目指し進撃した。ソヴィエト=ロシアはポーランドの社会主義勢力の蜂起を期待しロシアにつぐ革命の実現を目指したが、期待に反してポーランドの労働者は同調せず、8月、ワルシャワ近郊のヴィスワ川の戦闘でピウスツキ指揮のポーランド軍に大敗、ポーランドから撤退した。1921年3月、両国間にリガ条約が成立、ポーランドはロシアから西ウクライナと白ロシアの一部を獲得した。ポーランドでは救国の英雄としてピウスツキが軍事権力を樹立、独裁者となっていく。

Episode ヴィスワの奇跡

 ワルシャワを前にした決戦は、8月12日、開始された。「ヴイスワの奇跡」が起ったのは16日であった。この日、赤軍第三騎兵団は、スターリンの勧告に従い、ルヴフ方面へと移動を始めた。この機をピウスツキは見逃さなかった。彼は自ら先頭に立って、ヴィエプシュ川沿いの比較的脆弱な赤軍支隊を一蹴したあと、一気に赤軍本隊を背後から包囲する作戦を展開した。赤軍は撤退し、ポーランド軍は再びブグ川を越えた。赤軍は5万人もが捕虜となり、わずか数日間で400キロにわたって敗走するという大敗北を喫した。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書/アンリ=ボグダン『東欧の歴史』1993>

レーニンの誤算

 ソヴィエト=ポーランド戦争と時を同じくして、1920年7月、コミンテルン第二回大会が開催された。大会は国際プロレタリアートは世界革命に向けて戦うことを決議し、明るい展望が開かれたかに見えた。ポーランドとの戦争では赤軍は反撃に転じ国境線まで押し返していた。そこでピウスツキに講和を提起するか、ポーランド内に侵攻してワルシャワをめざすか、ソヴィエトの指導者に意見の違いが生じた。レーニンは進撃を支持した。
「彼は、ポーランドの労働者が赤軍を資本家の軛(くびき)からの解放者として歓迎し、ポーランドの革命がドイツと西欧への道を拓くだろうという期待に幻惑されたのである。」トロツキーは反対した。反撃を指揮した司令官トハチェフスキーは進撃を全面的に支持し、赤軍をコミンテルンの軍にしたいと願っていた。大胆と熱狂が勝利し、赤軍は進撃したがワルシャワを前にして「この処置の重大な過誤が直ちに明らかになった。ポーランドの労働者は沸きたたず、ピウスツキはロシアの侵略者に対する民族的抵抗を訴えて成功した。この直前まで敵に敗北の屈辱を味わわせていた赤軍は、続く数週間に大敗北を喫した。・・・1920年10月12日、休戦協定が調印された。ソヴィエト共和国は革命的楽観主義のために大きな代価を支払ったのであった。」
「・・・ポーランドでの敗北はソヴィエトの対西欧世界関係に永く続く反響を及ぼした。この戦闘は、ポーランド労働者が支配者に対して反乱を起こし、ロシア軍と協力してワルシャワに革命政府を樹立するであろうとの確信に基づいてなされたものであった。この期待がはずれたということは、ポーランドの労働者は西欧労働者と同様、国際プロレタリア革命の大義に帰依するにはまだあまりにも民族的忠誠心に深く浸透されているということを示していた。・・・」
「ポーランドでの軍事的敗北から、もう一つの教訓がひきだされた。赤軍の人員を供給したロシア農民は、故国では革命の大義を逞しく守ったが、革命を他国に輸出するために戦う気はなかったのである。今や内戦の余波である悲惨と荒廃に対する反乱を開始した農民は、国際革命の名の下に負わされる苦難に従順ではなかった。・・・」<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命』1979 岩波現代文庫 p.24-27>