印刷 | 通常画面に戻る |

サルゴン1世

前2300年頃、シュメール人の都市国家を征服し、はじめてメソポタミアを統一してアッカド王国を建てた王。「戦いの王」と言われた。

アッカド王国の王

サルゴン1世の頭部像。
サルゴン1世の頭部像。
 メソポタミアセム語系アッカド王国の王。正しくはシャルキン王という(サルゴンは『旧約聖書』に出てくるヘブライ語にもとづく英語表記。シャル=キンは「真の王」を意味する)。紀元前2300年頃、メソポタミア南部のシュメール人の都市国家を制圧して、はじめて統一国家を築き、「シュメールおよびアッカドの王」となり、その碑文には「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)まで」(「四海の王」と言われる場合もある)を支配したとある。彼はメソポタミアに初めて領域的支配を打ちたて「戦争王(戦いの王)」とも言われた。
 アッカドのサルゴン王は周辺世界との交易を積極的に行ったらしく、サルゴン王時代の楔形文字の押された粘土板文書には、インダス文明を示すと思われる「メルッハ」や、オマーンバーレーンとも交易を行っていたことが記されている。
 右図は、アッカド人のサルゴン1世あるいはナラム=シン王のものとされている頭部像。高さ36センチで青銅製。ニネヴェ出土で現在はイラク博物館蔵。
 アッカド王国は、サルゴン1世の孫、ナラム=シン王のときにも東西に支配領域を広げ、全盛期となったが、前2150年頃、バビロニアの東北から興ったグティ人の侵略を受けて滅亡し、その次にシュメール人ウル第3王朝が復興する。

参考 アッシリアのサルゴン2世

 なお、世界史上、オリエントでサルゴン2世を名のる王がいる。それはずっと後のアッシリア帝国の最盛期、前8世紀に出現したサルゴン2世(在位前722/前721~前705)で、サルゴン1世とは直接関係はない。メソポタミア北部にあったアッシリアは、前9世紀に有力となり、前7世紀にはオリエントを統一してアッシリア帝国を成立させたが、サルゴン2世前722年にパレスチナ北部のイスラエル王国の都サマリアを占領して滅ぼした。
印 刷
印刷画面へ