サルゴン1世
前2300年頃、シュメール人の都市国家を征服し、はじめてメソポタミアを統一してアッカド王国を建てた王。「戦いの王」と言われた。
アッカド王国の王

サルゴン1世の頭部像。
アッカドのサルゴン王は周辺世界との交易を積極的に行ったらしく、サルゴン王時代の楔形文字の押された粘土板文書には、インダス文明を示すと思われる「
右図は、アッカド人のサルゴン1世あるいはナラム=シン王のものとされている頭部像。高さ36センチで青銅製。ニネヴェ出土で現在はイラク博物館蔵。
アッカド王国は、サルゴン1世の孫、ナラム=シン王のときにも東西に支配領域を広げ、全盛期となったが、前2150年頃、バビロニアの東北から興ったグティ人の侵略を受けて滅亡し、その次にシュメール人のウル第3王朝が復興する。
参考 アッシリアのサルゴン2世
なお、世界史上、オリエントでサルゴン2世を名のる王がいる。それはずっと後のアッシリア帝国の最盛期、前8世紀に出現したサルゴン2世(在位前722/前721~前705)で、サルゴン1世とは直接関係はない。メソポタミア北部にあったアッシリアは、前9世紀に有力となり、前7世紀にはオリエントを統一してアッシリア帝国を成立させたが、サルゴン2世は前722年にパレスチナ北部のイスラエル王国の都サマリアを占領して滅ぼした。Episode サルゴン2世の最後
アッシリア帝国のサルゴン2世は前705年、イラン西部の山岳地帯で作戦行動を行っている最中、部下の部隊と共に敵の罠に落ち、惨殺されたらしい。別の説では最期の地はアナトリアのタバルともいう。享年60といわれるサルゴンの最後は無残で、遺骸を回収できなかった。当時の考え方では、葬儀や供養がおこなわれない死者の霊は悪霊になると恐れられ、息子で後継者センナケリブは不吉として新都トゥル・シャルキンを捨て去った。この最後こそが神罰であり、やはりサルゴンは王位の簒奪社であると主張している研究者もいる。<小林登志子『アッシリア全史』2025 中公新書 p.228>